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「観光人文学への遡航(75)」 杉原千畝、もう一つの顔

2026年9月8日(火) 配信

 杉原千畝と言えば、多くのユダヤ人難民の命を救った人道的良心の人というイメージが定着している。ただ、これだけでは彼のすごさを語るには足りない。

 もちろん、彼の行った人道的行為が偉大であることにはまったく異論はない。前回書いたように、組織の命令と自らの良心が衝突したとき、目の前の人間の命を守ることを選んだ杉原の決断は、もっと多くの日本人に知られるべきである。

 私が杉原に強く関心を抱いているもう一つの理由は、彼が並外れた「情報のプロ」だったことにある。

 杉原は早稲田大学を中退して外務省留学生となり、ハルビンでロシア語を徹底的に学んだ。1933年に赴任した満州国外交部ではソ連との北満鉄道譲渡交渉にも携わった。筋金入りのソ連通だったのである。姿が見えないところでロシア語が聞こえて、ロシア人が話しているのかと思ったら杉原だったという逸話も残されているほどであった。

 1939年、杉原は領事代理としてリトアニアのカウナスに赴任する。当時、リトアニアに日本人はほとんどいなかったにも関わらず、カウナスに領事館が設立されることになったのである。

 リトアニアは、西のドイツ・ポーランド、東のソ連に挟まれた小国で、まさにこれらの国々の動向を探るには絶好の場所であった。杉原はロシア語を武器に人脈を築き、ポーランド側の情報関係者らとも接触しながら、ドイツとソ連の情報を収集した。「命のビザ」を発行していたまさにその時期にも、各国公館などから情報を集め続けていた。

 杉原がカウナスに滞在していたのはわずか1年余りであった。1940年、ソ連によるリトアニア併合に伴い、ソ連側から外国公館の閉鎖が求められ、日本領事館も閉鎖されることになった。

 カウナスを離れた後も杉原の情報収集は続いた。41年5月、ドイツのケーニヒスベルクにいた杉原は、ドイツ軍の大部隊がソ連国境方面に集結していることをつかんだ。そして、独ソ関係は6月には重大な局面を迎えるということを東京へ報告している。ただ、この杉原からの報告は、日本政府の政策判断に十分に生かされることはなかった。

 6月22日、ドイツはソ連への侵攻を開始した。

 日本から見れば、それまでドイツはソ連と独ソ不可侵条約を締結していたにもかかわらず、突如としてソ連侵攻を開始したように映る。しかし杉原は、その水面下で進んでいたドイツ軍の動きを早くから察知し、独ソ関係が6月に重大な局面を迎えることを的確に報告していたのである。

 杉原は、大国が発表する情報をただ収集していたのではない。噂だけを集めたのでもない。自分で現場を歩き、人に会い、情報を集め、いくつもの情報を突き合わせて分析した。そして大国が次に何をするのかを読もうとしたのである。

 

島川 崇 氏

神奈川大学国際日本学部・教授 島川 崇 氏

1970年愛媛県松山市生まれ。国際基督教大学卒。日本航空株式会社、財団法人松下政経塾、ロンドンメトロポリタン大学院MBA(Tourism & Hospitality)修了。韓国観光公社ソウル本社日本部客員研究員、株式会社日本総合研究所、東北福祉大学総合マネジメント学部、東洋大学国際観光学部国際観光学科長・教授を経て、神奈川大学国際日本学部教授。教員の傍ら、PHP総合研究所リサーチフェロー、藤沢市観光アドバイザー等を歴任。東京工業大学大学院情報理工学研究科博士後期課程満期退学。

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