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「観光人文学への遡航(77)」 リトアニア:大国の狭間で

2026年11月8日(日) 配信

 これまで3回にわたり、杉原千畝の足跡をたどってきた。多くのユダヤ人難民を救った「命のビザ」のエピソードを通して、一般的に知られている人道に生きる人としてだけでなく、国際情勢を的確に読み解くインテリジェンスのプロとしての杉原の姿を紹介してきた。

 ここで、杉原が赴任したリトアニアという国そのものに目を向けると、杉原がドイツとソ連の動向を探っていたまさにそのとき、リトアニアの運命は、その2つの大国の手に握られていたのである。

 リトアニアは、かつてポーランドと連合国家を形成していた。しかし18世紀末のポーランド分割によってロシア帝国の支配下に入る。その後、第一次世界大戦中の1918年に独立を宣言し、ようやく近代国家としての歩みを始めた。

 ところが、独立からわずか21年後の39年8月23日、独ソ不可侵条約によって、リトアニアの国家基盤が揺らぐことになる。

 この条約には秘密議定書が存在した。それは、ドイツとソ連が東欧諸国を互いの勢力圏に分割するという取り決めである。当初、リトアニアはドイツ側の勢力圏とされたが、その後の追加の取り決めで、大部分がソ連側の勢力圏に移された。

 リトアニアの国民が知らないところで、国家の将来を外国同士の都合で決めていたのである。

 そして10月10日、ソ連はリトアニアに対し、歴史的首都ヴィリニュスとその周辺地域を引き渡す代わりに、ソ連軍の駐留を認めるという条約を締結させた。

 ヴィリニュスは、第一次世界大戦後にポーランドの支配下に置かれていた歴史的首都である。しかし、その返還と引き換えに、最大2万人のソ連軍が国内に駐留することになった。

 私は今年4月にリトアニアを訪れた際、現地でこんな言葉を聞いた。「ヴィリニュスは我われのものになった。しかし、それで我われはロシアのものになった」。この言葉ほど、国家の置かれた皮肉な状況を表すものはない。

 そして1940年6月、ソ連はリトアニアに最後通牒を突きつけ、大軍を進駐させた。リトアニア政府は武力抵抗を選ばず、ソ連軍の進駐を受け入れた。その後、親ソ政権が樹立され、ソ連の支配下で実施された選挙を経て、8月にはソ連への併合が強行された。18年の独立から、わずか22年でリトアニアは国家としての独立を失ったのである。

 杉原千畝がカウナスに着任したのは、独ソ不可侵条約締結からわずか5日後の39年8月28日であった。そして、40年9月5日にリトアニアを離れるまでのたったの1年間で、国家の独立が失われていく過程を目の当たりにしていたのである。

 国家の命運を他国に委ねることが、いかに危ういことか。リトアニアの歴史は、そのことを雄弁に物語っている。

 

島川 崇 氏

神奈川大学国際日本学部・教授 島川 崇 氏

1970年愛媛県松山市生まれ。国際基督教大学卒。日本航空株式会社、財団法人松下政経塾、ロンドンメトロポリタン大学院MBA(Tourism & Hospitality)修了。韓国観光公社ソウル本社日本部客員研究員、株式会社日本総合研究所、東北福祉大学総合マネジメント学部、東洋大学国際観光学部国際観光学科長・教授を経て、神奈川大学国際日本学部教授。教員の傍ら、PHP総合研究所リサーチフェロー、藤沢市観光アドバイザー等を歴任。東京工業大学大学院情報理工学研究科博士後期課程満期退学。

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