【精神性の高い旅~巡礼・あなただけの心の旅〈道〉100選】-その56- 南方熊楠記念館(和歌山県・白浜町) “見えないものを観る” すべてが交差する萃点を訪ねて
2025年12月7日(日) 配信

「雨にけふる神島を見て 紀伊の国の生みし南方熊楠を思ふ」
1962年5月、昭和天皇・皇后両陛下が南紀行幸啓の際、それよりも30余年前に訪れた神島を望見され、この御歌を詠まれた。天皇陛下の御歌に固有の氏名がそのまま詠まれることは極めてまれなことだが、それだけ南方熊楠との出会いは印象的だったということが、ここからもうかがい知ることができる。

南方熊楠は、1867年に和歌山県に生まれた。幼いころからとくに自然界に関しての好奇心が旺盛で、4歳のころ隣人から植物の本をもらって、大事に読み進めたそうである。その後も好奇心はとどまるところを知らず、百科事典や植物図鑑を筆写し、知識を習得していった。抜群の記憶力を持っていたにもかかわらず、学校の勉強はあまり熱心ではなかった。
1883年、和歌山中学を卒業して上京し、翌年、大学予備門に入学した。このときの同期生には、正岡子規、夏目漱石、秋山真之らがいた。
私は松山出身で、私の自宅の裏に秋山真之の生家がある。正岡子規も松山が生んだ偉人であり、夏目漱石も旧制松山中学で英語を教えた。そんな人たちの伝記の中にも南方熊楠は登場するので、私も小さいころから彼の名前は知っていたが、常に変わった人という扱いであった。
熊楠は、大学予備門入学後も授業には興味を持たず、校外に出て図書館での筆写や、上野博物館、動物園や小石川植物園などで自学し、また考古遺物や動植物・鉱物などを採集することが多かった。
そのため、学年末試験で落第したこともあり、大学予備門を中退し、和歌山に帰郷した。その後、アメリカ、イギリスなどへ海外遊学した。少年時代から興味のあるものはすべて写し取るという手法で知識を貪欲に習得してきたおかげで、英語だけでなく、フランス語、ドイツ語、イタリア語、ラテン語に至るまでさまざまな言語の文献を読みこなし、国内外で多くの論文を発表した。雑誌「ネイチャー」には生涯で51本もの論文が掲載された。
専門である粘菌をはじめとした生物学のほか、人文学などにおいてもその研究の対象は広がり、とくに民俗学の分野では柳田国男と並ぶ重要な役割を果たしたが、生涯、大学教授や官僚の世界には足を踏み入れず、在野の学者に徹し、自然保護運動家の先駆けとしても積極的に活動した。まさに、知の巨人と呼ぶにふさわしい人物である。

彼が出会った多くの人々の心に深く刻み込まれている南方熊楠という人となりは、時を越えた現代人をも魅了する。
熊楠は、真言宗の僧侶・土宜法龍との交流から、独自の曼陀羅観を持っていた。「南方マンダラ」と名付けられたこの世界観は、さまざまな直線がランダムに引かれている中にこれらの線が交わる点があり、それを「萃点」と名付けている。この萃点は、色々な物事の理を認識しやすくなる点だと述べている。そして、萃点から遠ざかっていくにつれてその真理を理解することは困難になっていく。遠ざかった地点では、第六感で感じるような領域であり、そのさらに外は人間が到達できない領域があるというのである。
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萃点。たまに、どん詰まったときにそのどん詰まりの先で超伝導のように解が見えてくるときがある。案外、近しい仲間と話しているときではなく、遠い関係性の人からの何気ない一言の中にその解があったりする。最近そのようなことがいきなり起こることがあるのだが、そういうことだろうか。
南方熊楠が観ている景色は、私たちが見えていないものなんだろうなと思いながら、そのいま私たちが見えないものを観るために、感性をさらに磨いていきたい。そんな場が、和歌山県・白浜町の南方熊楠記念館である。白浜町はパンダがいなくなっても、人の感性を研ぎ澄ます稀有な観光素材がある。
■旅人・執筆 島川 崇
神奈川大学国際日本学部国際文化交流学科教授。2019年「精神性の高い観光研究部会」創設メンバーの1人。


