【精神性の高い旅~巡礼・あなただけの心の旅〈道〉100選】-その54- 横須賀美術館(神奈川県横須賀市) 東京湾を行き交う多様な船 美術館から眺め活力をもらう
2025年10月13日(月) 配信

精神性の高い旅は何も神社や寺院を訪ねるだけではない。海をじっと眺めているのも精神性を高める。あの空海も、室戸岬の近くにある海と空だけが見える洞窟で修行をし、それで空海と名乗るようになったという。
たまに海が見たくなることがある。私はいま教育学で博士論文を執筆しているのだが、今までの論文と違い、哲学的な問いが求められているので、頻繁にどん詰まる。家で悶々としていても時間だけが過ぎていくので、この状況を打開するために、海に行くことがある。でも、住居と職場のある横浜のごちゃごちゃした海だと思索を深めることができない。かといって、何もない海も変化がなく眠くなるだけだ。
かつて被災地復興の観光に関わっていたときに、岩手県宮古市にある本州最東端の魹ヶ崎に行ったことがあるのだが、目の前に広がる大きな太平洋は何もなさ過ぎて、何も考えられなかった。

そんなとき、最近ちょっと横須賀に関わることが多いことから、横須賀美術館に行ってみようかなと思い、妻と娘と3人で訪ねた。
娘はいま高校生で、将来は建築を学びたいと言い出したので、特徴的な建築を見せたいとかねがね思っていたことから、建築家山本理顕の傑作である横須賀美術館を訪問した。

横須賀美術館は2007年4月に開館し、三方を山に、正面を海に囲まれた立地から、丘を利用して地形と一体化して建てられている。観音崎公園から遊歩道を利用して山側から来てもスムーズに入館できるように工夫されている。日本のコンセプト先行型の建築はあまりにも自己主張しすぎて、周囲の景観から浮いてしまっているものも少なくないが、横須賀美術館は周囲の景観に溶け込んでいる。設計した山本理顕は「環境全体が美術館」とのアイデアから、周囲の環境に調和するように、高さは低く抑えられ、外壁はガラスで透明感のある外観を形成している。
そして、東京湾の目の前という好立地で、美術だけでなく、その景観も楽しむことができる。
私は東京湾という海がこんなに心躍るものだとは思わなかった。横須賀の海には、地元の漁船はもちろん、大型クルーズ客船、プレジャーボート、大小の貨物船や自動車運搬船、タンカー、軍艦までやってくる。その前を小さなシーカヤックがのんびりと進んでいる。大小さまざまな船が行き交う姿を見ていると、なぜか活力をもらうことができる。
これらの船すべてに人が乗り、動かしている。その船に乗る人々の表情もきっと多様だ。プレジャーボートやシーカヤックはにこにこと、大型船はリラックスし、貨物船や軍艦は真剣そのもの、漁船はどうだろうか、大漁で誇らしげに帰ってきているところだろうか。
そんなさまざまな表情を持ちながら、最適なスピードで前へ前へと進んでいる。東京湾はこんなにもたくさんの船が行き交っているのに、決してぶつかることはなく、互いの持ち場を尊重しながら進んでいるようすは見ていて心地よい。

この東京湾の景観は、低い建物の屋上から見るのはもちろん、1階のイタリアンレストランからワインを傾け、上質の料理をいただきながら眺めるのも至福の時である。
1階の海が見える正面にイタリアンレストランを配置しようと考えたのも、建築家山本理顕の当初からのアイデアらしい。美術館ができる前の何もない丘と池の状態のときから、美術館が完成して集まってきた人々がこの風景を見てにこにこしている姿が彼の頭にはあったようだ。
11月3日まで、美術館では「山本理顕展―コミュニティと建築」が催されている。この特別展を見ると、山本理顕がどのような想いを乗せて設計をしたかがよくわかる。これを見たあとに、ぜひ屋上広場から山の広場に向かってほしい。そこからの眺めも格別である。
■旅人・執筆 島川 崇
神奈川大学国際日本学部国際文化交流学科教授。2019年「精神性の高い観光研究部会」創設メンバーの1人。

