【精神性の高い旅~巡礼・あなただけの心の旅〈道〉100選】-その46-石手寺(愛媛県松山市) お遍路さんのルーツ 衛門三郎伝説の寺
2025年2月6日(木) 配信
「仏法遙かに非ず。心中にして即ち近し」
仏法は外に求めるのではなく、自分の心の中にこそ求めるべきである。つまり、どこか遠いところに目標を置いて歩むのではなく、いまここで本来の自己を自覚するところに仏法がある。
これは弘法大師空海の言葉である。
私は高校卒業まで愛媛県松山市で育った。親に対する反発もあって、高校卒業後は絶対に東京に出ていこうと心に決めていた。大学時代も、卒業後に地元に戻るという選択肢はなかった。
一昨年、母が他界し、要介護の父が残され、地元の役場で働いていた弟が仕事を辞めて介護をしている。そのため、高校卒業後はあまり頻繁には帰省していなかったのだが、父と弟を激励するために、最近は頻繁に帰省するようになった。
帰省するたびに、家から近くにある懐かしい場所を訪ねる。子供のときにはその価値をまったく意識せずにフツーに遊んでいた場所が、大いなる価値のある場所だったことをいま改めて再認識する。
四国八十八カ所第51番札所石手寺もその一つだ。
石手寺は、もともと安養寺と称し、奈良時代の728年に聖武天皇の勅願に応じて、伊予の太守越智玉純(河野玉澄)が夢でこの地は霊場だと感得し、熊野十二社権現を祀る道場として創設された。
当初は法相宗であったが、空海が訪問したことで真言宗に改められた。本尊は薬師如来で、子宝、安産にご利益があると地元でも言われていた。

石手寺とは不思議な名前だと思われるが、その由来が伝説となって今に伝わっている。いくつかバリエーションがあるのだが、石手寺の由来では、以下のように示されている。
むかし、現在の松山市荏原に衛門三郎という豪族がいた。家は豊かであったが、強欲で非道な性格で神仏を敬わず、慈悲の心を持たず、私利私欲のみを追求する者であった。ある日、彼の屋敷を訪ねてきた托鉢の僧を追い払おうと竹箒で彼の持つ鉄の鉢を8つに割った。その僧こそ弘法大師空海だった。
翌日から、衛門三郎の8人の子が次々に死んだ。 それは大師に対する悪事の報いだと悟った彼は、田畑を売り払い、家人たちに分け与え、妻と離縁し、大師を追って謝罪の旅に出た。
衛門三郎は20回も回ったにもかかわらず、大師に会うことは叶わず、21回目からは逆回り(逆打ち)することを思いついた。衰弱してきた衛門三郎は21回目の途中第12番札所焼山寺のふもとでとうとう力尽きて倒れてしまった。
そのとき、突如大師が現れた。三郎は今までの非礼を泣いて詫びた。大師が「望みはあるか」と尋ねると、三郎は「来世も河野家に生まれ、今度こそ人の役に立ちたい」と言い残して息絶えた。大師は近くにあった石に「衛門三郎」と刻み、彼の手に握らせた。

翌年、豪族河野家に生まれた男の子は、右手を固く握りしめたまま開かない。寺で願いをかけたところ、開いた手には、衛門三郎と書かれた石があったのだ。河野氏はこの石を寺に納め、寺の名前を安養寺から石手寺と改めた。
衛門三郎は、自分の過ちを覚り、大師を追うが、遠くにある大師に会おうとしても結局会えなかった。彼がまさに息絶えんとするときに大師が現れるが、これは三郎の心持ちが大師と一体となったことで、心の中に大師が現れたのではなかろうか。すなわち、遥か先に追い求めていたものは、先ではなく自分の中にあるのだ。自分を磨くことで、心の中に本来備わっている仏法が現れて来る。
そんな弘法大師の言葉をかみしめながら、生まれ育った近隣を大事にしなければいけないということも時を越えてようやく理解することができた石手寺であった。
■旅人・執筆 島川 崇
神奈川大学国際日本学部国際文化交流学科教授。2019年「精神性の高い観光研究部会」創設メンバーの1人。