「観光人文学への遡航(72)」 国益を考えた外交に観光が足かせにならないために
2026年6月7日(日) 配信

ここまで、特定の国から観光を武器に外交の方向性の転換を求められたときの対応をパラオと日本を比較してきた。覇権国家がその国にとってのアウトバウンド観光をハードパワーとして行使してきたとき、それが機能するか否かは、観光客数そのものではなく、市場構造、政策設計、社会的認識、経済基盤といった複合的要因によって規定されることが明らかとなった。
とくに特定市場への依存度が高い場合に、観光流動の変化が国家の意思決定に対する外部圧力として機能しやすい。一方で市場の多様性や政策的分散が確保されている場合には、その影響は相対的に限定される。
したがって、観光政策は単なる需要拡大ではなく、リスク管理および構造的安定性の観点から再設計される必要がある。その意味では、これからの観光政策や観光教育においては、少なくとも次の4点に留意する必要がある。
第一に、受入市場を特定の一国に偏らせないことである。観光需要の多様化は、経済的リスクの分散であると同時に、外交的圧力への耐性を高めることにもつながる。これは国家としての対応はもちろん、民間の個別のマネジメントにおいても肝に銘じるべき点である。
第二に、観光の成功を単純に入込客数の多さだけで評価しないことである。大量送客は短期的な成果をもたらす一方で、政治的・経済的依存を深める危険を伴う。とりわけ、国家の意向によって流れが左右されやすい団体旅行に過度に依存することは、長期的には脆弱性を高める。
第三に、観光には外交的側面があることを、教育のなかで明確に位置付けることである。観光を学ぶ学生には、観光が時に国家間関係のなかで戦略的に用いられることがあるという現実も教えていく必要がある。
第四に、たとえ観光が政治的な道具として用いられる場面があったとしても、覇権国家からの個々の観光客に対しては、可能な限り誠実なホスピタリティを保つことである。国家の政策と、現場を訪れる旅行者個人とは区別して考えなければならない。観光の現場で働く人々が守るべき倫理は、対立をそのまま目の前のお客様に向けることではなく、人と人との関係を丁寧に築くことにある。
結局、観光はソフトパワーとしてのみならず、ハードパワー的に行使され得る政治的資源であることを、すべての観光に関わる人は肝に銘じておく必要がある。とくに観光流動の統制を通じた影響力行使は、受入国の経済のみならず、社会構造および政策決定過程にも影響を及ぼす可能性を持つ。
今後、観光研究においては、観光の経済的・文化的側面に加え、その政治的機能を統合的に分析する視点が求められる。また、観光教育においても、観光の持つ多面的性格を踏まえた理論的枠組みの構築が必要である。

神奈川大学国際日本学部・教授 島川 崇 氏
1970年愛媛県松山市生まれ。国際基督教大学卒。日本航空株式会社、財団法人松下政経塾、ロンドンメトロポリタン大学院MBA(Tourism & Hospitality)修了。韓国観光公社ソウル本社日本部客員研究員、株式会社日本総合研究所、東北福祉大学総合マネジメント学部、東洋大学国際観光学部国際観光学科長・教授を経て、神奈川大学国際日本学部教授。教員の傍ら、PHP総合研究所リサーチフェロー、藤沢市観光アドバイザー等を歴任。東京工業大学大学院情報理工学研究科博士後期課程満期退学。


