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「観光人文学への遡航(68)」 外交における観光②パラオから学ぶ(その2)

2026年2月11日(水) 配信

 もともとパラオはダイビングやスポーツフィッシングでは知られたデスティネーションであった。ただ1980年当時、観光客は年間たった5201人にとどまっていた。

 ツアー内容はダイビングとスポーツフィッシングに加えて、慰霊団、遺骨収集といった訪問が中心であり、日本人が53%、米国人が40%を占め、その他の国からの来訪者はほとんど見られなかった。

 この当時の入国は、グアムからコンチネンタルミクロネシア航空でコロール空港に入るしかなかった。

 これが1985年には入込客数が1万1844人とほぼ2倍となる。それまではパラオには高級リゾート・ホテルは存在しなかったが、この時期に東急系のパラオパシフィックリゾートがオープンする。

 89年から台湾と韓国マーケットに門戸が開かれ、入込客数も2万1433人を数えた。このときの比率は日本52%、米国25%、ヨーロッパ5%、台湾2%、韓国1・6%となった。 

 その後、94年に米国から独立を果たし、主要産業として観光振興に大きく舵を切ることとなった。

 2000年代になると、前回紹介した日本航空のチャーターも定着した。近隣諸国が01年の3・11世界同時多発テロ、02年のSARSなどで苦しむなか、パラオは順調に入込客数を伸ばしていたが、09年にリーマンショックの影響を受けて、初めて前年を大きく割り込むこととなる。

 ただ、その影響も軽微に終わり、翌年からはまた増加に転じることとなった。

 12年には初めて10万人を突破し、このまま順調に伸ばしていくと思われた。

 ここで予期せぬ出来事に見舞われることとなる。12年に導入したボーイング787型機がバッテリーのトラブルで運航停止を余儀なくされた。日本航空は、B787で運航を予定していた路線に対して、既存の中型機B767や中・大型機のB777を投入せざるを得なくなり、チャーターに機材を注ぐ余力がなくなってしまった。そのため13年からは日本航空のチャーターが大幅に減少することとなってしまった。

 当時の日本航空は経営破綻して再建の途上であり、旧型機を一斉に売却したこともあり、この時期の機材繰りには大変厳しいものがあった。

 ここでパラオチャーターに対して大幅な減便をしたが、B787問題が解決しても、破綻後の経営政策において採算にかなり厳格になった日本航空としては、単価の安いリゾート路線よりも、ビジネスクラスを中心に販売できるビジネス路線に対して注力するようになったため、パラオのチャーター路便数はかなり少ないままとなってしまった。

 そのようななかで、15年、渡りに船となったのが、中国からのチャーター便就航の話である。パラオは中国からの観光客に頼ることとなる。

 

 

島川 崇 氏

神奈川大学国際日本学部・教授 島川 崇 氏

1970年愛媛県松山市生まれ。国際基督教大学卒。日本航空株式会社、財団法人松下政経塾、ロンドンメトロポリタン大学院MBA(Tourism & Hospitality)修了。韓国観光公社ソウル本社日本部客員研究員、株式会社日本総合研究所、東北福祉大学総合マネジメント学部、東洋大学国際観光学部国際観光学科長・教授を経て、神奈川大学国際日本学部教授。教員の傍ら、PHP総合研究所リサーチフェロー、藤沢市観光アドバイザー等を歴任。東京工業大学大学院情報理工学研究科博士後期課程満期退学。

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