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「観光人文学への遡航(64)」 難産の末に誕生した専門学校

2025年10月11日
編集部

2025年10月11日(土) 配信

 1960年代後半は大学紛争が各地で勃発した時代でもあった。大学紛争は全国に波及し、過激化、長期化の一途をたどっていた。

 過激派学生の凶悪な行動が一般学生から忌避されるようになり、一般市民にも被害が出てくると、世論は学生運動自体に批判的になっていった。大学の努力の限界を超える事態に達した際は、警察力によって暴力を排除することができるようになったことにより、紛争は急速に鎮静化することとなった。

 このことも、旧態依然としている大学教育に対して世間が批判的な見方を持つことへの追い風となった。

 時期を同じくして、法の縛りがなく自由に経営できることから増加の一途をたどっている各種学校の法整備の議論も始まった。この当時、大学・短大の学生総数が約83万人だったのと比較して、高校卒業後に各種学校に通っている生徒は約130万人にもなっていた。ここで、現行の大学・短大よりも、より職業または実際生活に直結した形態を持つ新たな学校制度を創設する構想が立てられた。

 1966年に、現行の各種学校制度に代えて、新たな各種学校制度を創設する学校教育法の一部を改正する法律案要綱が閣議決定された。ここで、自由に任せられていた各種学校の目的を規定し、その範囲を明確化すること、設置、廃止、設置者の変更や目的の変更には監督庁の認可を要すること、設置者の要件、設置基準、教科の基準、教員資格等の整備を行い、水準の維持向上をはかることなどを定めた法改正が企図されていた。

 しかし、このなかに外国人学校の制度も盛り込まれていたため、外国人学校、とくに朝鮮人学校が反対し、日本社会党もこれに同調した。結局、この改正案の国会提出は見送られた。

 自由民主党は、各種学校の法整備をきっかけに、とくに朝鮮人学校への規制を加えたいとの思惑があった一方で、日本社会党は強硬に反対し、もし各種学校の法整備を行うのなら、外国人学校を分離し、旧各種学校の位置づけをそのまま保留する方式を主張した。その後も日本社会党は、外国人学校制度は、在日朝鮮人に対する差別と圧迫を狙った民族教育弾圧法案だと強く反対を続けた。そのため、その後も1968年、69年、71年と連続で改正法案は廃案となった。

 ようやく1972年になって専修学校制度創設法案として、各種学校の法的位置づけはそのままに、各種学校の中で職業教育を行うものだけを専修学校に移行するという形をとったことで、日本社会党も外国人学校が各種学校の位置づけのまま残ることが確約された。これによって審議にようやく入ることができ、1975年に可決成立した。ここに専修学校専門課程、いわゆる専門学校のフレームワークが最初に閣議決定されてから10年の歳月を経て誕生したのである。

 

島川 崇 氏

神奈川大学国際日本学部・教授 島川 崇 氏

1970年愛媛県松山市生まれ。国際基督教大学卒。日本航空株式会社、財団法人松下政経塾、ロンドンメトロポリタン大学院MBA(Tourism & Hospitality)修了。韓国観光公社ソウル本社日本部客員研究員、株式会社日本総合研究所、東北福祉大学総合マネジメント学部、東洋大学国際観光学部国際観光学科長・教授を経て、神奈川大学国際日本学部教授。教員の傍ら、PHP総合研究所リサーチフェロー、藤沢市観光アドバイザー等を歴任。東京工業大学大学院情報理工学研究科博士後期課程満期退学。

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