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「観光人文学への遡航(76)」 杉原千畝はなぜソ連におそれられたか

2026年10月10日
編集部

2026年10月10日(土) 配信

 杉原千畝はなぜ世界情勢を正確に見極められたのか。

 前回、杉原が「命のビザ」の人であると同時に、並外れた「情報のプロ」だったことを書いた。しかし、彼が独ソ開戦の時期までかなり正確に読んだことを、単に「情報収集能力が優れていた」の一言で片づけてしまっては、肝心なものを見落としてしまう。

 彼の原点は満洲にあった。杉原は外務省留学生としてハルビンでロシア語を学んだ。教科書だけで勉強したのではない。ロシア革命後に流入した白系ロシア人らとも交流し、生きたロシア語を身につけると同時に、彼らを通じてソ連に関する情報を集める人的ネットワークを築いていった。

 その能力が発揮されたのが、満州国外交部時代の北満鉄道譲渡交渉である。ソ連側は当初、6億2500万円という巨額の売却額を要求した。杉原はソ連側の算定根拠を調べるだけでなく、鉄道から貨車が持ち出されている実態なども把握し、交渉材料とした。最終的な譲渡額は1億4000万円となった。

 興味深いのはその後である。

 1936年、杉原はモスクワの日本大使館への赴任を命じられた。ところがソ連は杉原への入国査証の発給を拒否した。ソ連側は、杉原が白系ロシア人と密接な関係を持っていたことなどを理由に挙げたが、北満鉄道交渉などで示した情報収集能力への警戒も背景にあったと考えられている。つまり、杉原は赴任する前からソ連に警戒される外交官だったのである。

 その杉原が1939年に送られたのが、リトアニアのカウナスだった。ここで忘れてはならないのは、杉原がユダヤ人難民を救うためにカウナスへ赴任したのではないということである。ドイツとソ連をはじめとする欧州情勢を観察し、情報を収集・分析することが重要な任務だった。

 そして、その能力が最も鮮明に表れたのが1941年のケーニヒスベルクである。杉原は亡命ポーランド政府の情報関係者らとソ連国境地帯を実際に踏査した。そこでドイツ軍の戦車や燃料車両などが隠されていることを確認する。さらに、ベルリンから軍用列車が連日東へ向かっていること、大兵力が集結していること、ドイツ軍将校が地図を読める程度のロシア語習得を命じられていることなど、ばらばらに見える情報を集めていった。

 そして杉原は、それらを一本の線につないだ。1941年5月9日、東京へ電報を送り、独ソ関係は「6月」に重大な局面を迎えると報告する。

 実際に6月22日、ドイツ軍はソ連へ侵攻した。

 現場へ行く。人に会う。自分の目で見る。そして、その異なる情報を突き合わせる。そして、その背後で何が動いているのかを考える。杉原千畝の本当の凄さは、そこにあったのではないかと思っている。

 

島川 崇 氏

神奈川大学国際日本学部・教授 島川 崇 氏

1970年愛媛県松山市生まれ。国際基督教大学卒。日本航空株式会社、財団法人松下政経塾、ロンドンメトロポリタン大学院MBA(Tourism & Hospitality)修了。韓国観光公社ソウル本社日本部客員研究員、株式会社日本総合研究所、東北福祉大学総合マネジメント学部、東洋大学国際観光学部国際観光学科長・教授を経て、神奈川大学国際日本学部教授。教員の傍ら、PHP総合研究所リサーチフェロー、藤沢市観光アドバイザー等を歴任。東京工業大学大学院情報理工学研究科博士後期課程満期退学。

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