【精神性の高い旅~巡礼・あなただけの心の旅〈道〉100選】-その62- 猿島(神奈川県横須賀市) “想い”は場所に根差す 世代を越え、メッセージを受信
2026年6月14日(日) 配信

ここのところ、なぜか横須賀に心惹かれている。
今は横浜に住み、横浜の大学に通勤しているが、横須賀へは横浜から約30分で行けるにもかかわらず、横浜市民はなかなか横須賀に遊びに行くという発想がない。東京都内や千葉県西部に住んでいたときは30分くらいのアクセスはなんともなかったのだが、どうも横浜に住み始めると、電車で30分が億劫になってしまう。それが最近なぜか横須賀へだけは体が向かって行くようになった。
横須賀の中心市街の沖に無人島「猿島」がある。猿島は東京湾内唯一の自然島で、面積は約0・055平方㌔、周囲約1・6㌔の小さな島である。

江戸時代後期、各所で外国船が現れるようになり、幕府は「異国船打払令」を出した。横須賀の観音崎と房総半島の富津岬の間を結ぶ海上を「打ち沈め線」とし、この防衛線よりも江戸湾の内湾に侵入をする異国船には攻撃するべしと定めた。そのようななかで猿島も首都を守る要塞としての機能が強化されることとなり、1847年猿島に国内初の砲台のための台場が築造された。
明治時代に入ると陸軍省・海軍省の所管となり、1881年に陸軍が東京湾要塞を建設した。第2次世界大戦後は、アメリカ合衆国に横須賀軍港とともに接収された。1961年に返還されたが、その後、航路も廃止されて、長い間立ち入り禁止となっていた。
1995年、横須賀市は当時の大蔵省から猿島の管理を委託されたことから、当時荒れ放題だった島内を整備することとなった。横須賀市は、散策路などを整備し、航路を復活させた。

2003年には、横須賀市が国から猿島の無償譲与を受け、「猿島公園」としてさらに本格的に公園として整備することとなった。
そのような経緯を経てきた猿島は、長い間放置されてきたことで樹木が繁茂し、要塞の遺構と自然とが混在している、なんとも独特な景観が広がっている。若い人たちはジブリ作品のラピュタの世界観を想起させると言っている。テレビドラマや映画のロケ地としても利用されており、仮面ライダーのショッカーの基地であったり、西部警察では犯人のアジトとして登場したりしたことがある。
猿島に行くには、戦艦三笠が保存されている三笠公園横の桟橋から毎日運航している船に乗ると約10分で到着する。入島したらいきなり要塞施設が始まる。煉瓦造りのトンネルや切通しなど、ここを散策するだけで、要塞として機能していたときのことを想像することができる。
猿島に入島して気づくのが、鳥のさえずりが近いことである。多くの鳥たちが来訪者からかなり近い距離に生息していることがわかる。天気のいい日には富士山も眺めることができるが、東京湾は大小さまざまな船が行き来しているので、それをのんびり見ているだけでも十分だ。なぜかここに導かれるようにやってきて、ここにいることがやけに心地よい。
かつてもこの猿島に惹かれた人がいた。1853年、日本を開国するために浦賀沖にやってきたペリーは、江戸湾の測量を行った際、この島をいたく気に入り、「ペリーアイランド」と名付けた。猿島はなぜここまで人を惹きつけるのだろう。
猿島は、海軍・陸軍が接収する前は、春日神社という地元の神社の土地であった。軍事上の重要地点になったので、要塞に土地をすべて明け渡し、神社はもう跡形もない。
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ペリーはペリーアイランドと名付けたが、定着しなかった。それは、もともと「猿島」の名前が定着していたからだ。猿島の名前は、日蓮が東京湾を渡ってきたときに遭難した際、突然現れた白い猿に導かれてこの島に辿り着いて一命をとりとめたという伝説による。島の北側に岩場があるのだが、日蓮はそこに漂着したようだ。この岩場には今は行くことができない。
そんな先人たちの想いがこの場所に伝わっている。場所の記憶が、訪れた人の感性に直接響いてくる。
もともとの観音崎から富津岬までを打ち沈め線としたのなら、防衛するためには、第1海堡・第2海堡はそのライン上にあるはずだ。それが第1海堡、第2海堡は、富津岬と猿島とを結んだ線上に並んでいる。これはきっと猿島が神の島だから、その験を担ぐためにわざわざ防衛線に猿島を含めたのではなかろうか。
“想い”は場所に根差し、世代を越えて伝わっていく。神社や寺院の建造物に頼らずに、その場所性からのメッセージを受信することで精神性を見出していきたいものだ。
■旅人・執筆 島川 崇
神奈川大学国際日本学部国際文化交流学科教授。2019年「精神性の高い観光研究部会」創設メンバーの1人。

