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「登録有形文化財 浪漫の宿めぐり(95)」(富山県南砺市) 松風樓 ≪花街の艶やかさを伝える明治建築の料亭旅館≫

2019年3月10日(日) 配信

節を目立たせてインパクトを強く持たせたさくらの間の天井。樹種はネズコとの説もある

 
どことなく華やぎを感じる町だった。広い通りの両側に灯籠が並び、一歩入った細道には小屋根付きの黒板塀や格子戸の家が見られた。この観音町と呼ばれた一帯は、昭和30年代初期まで繁華な花街だったのである。

 
 料理旅館の松風樓はその花街が形作られた最初に、遊郭として開業した。1900(明治33)年のことである。現在の建物も同じ時に建てられたものが基礎になっている。

 
 いまの館主の齊藤家が松風樓を入手したのは1921(大正10)年のこと。初代主人は齊藤藤一郎。古い写真を見ると肩幅の広い大柄な人物である。地元の相撲では東の横綱だった。

 
 松風樓は2代目の武吉の時代にかけて次第に拡大した。西に隣接する2軒の遊郭を入手し、その遊郭を曳家するなどして庭を作り、ほぼ今の形になったのは1958(昭和33)年ごろである。直前に売春防止法が施行され、松風樓は料亭としてスタートしていた。武吉は遊郭のような「樓」が付く名称を嫌って「松風園」に変えたが、現主人で4代目の文治さんが再び「松風樓」に戻した。当初からの伝統を大切にしたかったのだ。

 
 建物は間口約57㍍、奥行約36㍍の敷地いっぱいに立つ。2つの中庭を囲んで東棟と西棟に大別でき、宿では東棟を本館と別館、西棟を離れとも呼んでいる。3分割できる宴会場を除くほとんどが登録有形文化財であり、2つの蔵も文化財登録されている。14の客室のうちおおむね6室を宿泊用、8室を食事用に使い、ほかに宴会場が2室ある。各室の造りはすべて異なるが、とくに凝っているのはさくらの間とうずらの間だ。どちらも金沢から大工を呼んでしつらえたという。

 
 さくらの間は入り口に軒庇をつけ、輪切りの大木を飛び石風に置いた踏込玄関を設ける。本間は小ぢんまりした6畳だが、天井は格天井風に煤竹の棹を組み、大きな節を随所に残した天井板の風雅な造り。床柱は皮付きの桜丸太で、落し掛けには虫食いの自然木を用いた。自然木のうろを生かした透かし欄間もある。あまりの凝り様を見て、泣きだした客もいたという。

 
 うずらの間は踏込が杉皮を丸竹の棹で抑えた天井、次の間が網代組の天井で、本間の天井は四囲に煤竹を帯状に回し、中央は網代組にして洒落た。板床の床柱は吊柱で、書院障子風の下地窓がある。金沢大工の意気込みが感じられるようである。

 
 このほか夕映の間はごつごつした木肌を残した床框と筆返しのある違い棚など、落ち着きと遊びが適度に感じられる客室。井波彫刻の欄間がある鷹の間、踏込み床に細い煤竹の床柱を付けた雲井の間も面白い。

 
 女将の美華子さんは、建物の見方などを客や出入りの職人に教えてもらうことが多いという。「大事にしてね」。客の言葉を大切にして、これからも建物を守るつもりだ。

 

コラムニスト紹介

旅のルポライター 土井 正和氏

旅のルポライター。全国各地を取材し、フリーで旅の雑誌や新聞、旅行図書などに執筆活動をする。温泉、町並み、食べもの、山歩きといった旅全般を紹介するが、とくに現代日本を作る力となった「近代化遺産」や、それらを保全した「登録有形文化財」に関心が強い。著書に「温泉名山1日トレッキング」ほか。

 

 

 

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