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潜伏キリシタンの島々巡る 世界遺産に登録へ ~花の御堂~ 前篇 【再掲】

2018年7月3日
編集部:平綿 裕一

2018年7月3日(火) 配信 

旧野首教会の外観

 長崎県の「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連資産」が18年6月30日(土)、世界文化遺産の登録を受けた。日本の禁教期にもキリスト教信仰を続けてきた歴史などが評価された。

 17世紀の禁教令が19世紀に廃止されるまで、キリスト教信徒には厳しい弾圧や迫害があった。すべての宣教師が日本から消えて、再び信徒がいると発見される2世紀以上、ひそかに信仰は続いていた。世界でも珍しい例だという。

 構成資産は全部で12個ある。このうち4つがある平戸・小値賀・上五島の1市2町は、観光ルート形成推進協議会をつくり、3月22~23日にプレスツアーを行った。ガイドは長崎巡礼センター事務局長の入口仁志氏。潜伏キリシタンの歴史を事細かに教えてくれた。

 普段は定期便がない航路にチャーター便をはしらせ、構成資産などを効率的に巡ることができるようにした。長い弾圧の歴史のなかで信徒たちが辿った、上五島、小値賀、野崎島、平戸などへ移り住んだ足取りを追体験できるツアーとなる。

 1つの発露としての教会建築

中央手前の赤い屋根が、頭ヶ島天主堂

 信徒は長い弾圧を乗り越えたとき、1つの発露として各地で教会建築を始めた。

 長崎県には約130の教会がある。このうち50が五島列島にあり、新上五島には29の教会が残されている。現在の五島列島の信徒は全人口の10~15%の8千人ほどといわれる。

 そもそも1797年、外海地域(現在の西海市西側)を領地としていた大村藩から、五島藩への移住計画が結ばれる。当時、五島藩は人口不足にあえぎ、大村藩は人口超過気味だった。両者の利害が一致した面と、大村藩の厳しい弾圧から逃れるため、上五島へ移ったともいわれている。政策移住後も移住は止まず、最終的には3千~5千人ほどが移ったという。

 外海地域で、信徒は表向きは仏教徒として、信仰を守っていた。五島へ移住し、各地に集落を築き、さらに小値賀島、野崎島へと流れていく。

 佐世保港から西におよそ60㌔に位置する新上五島は潮の匂い漂う島。眼下は海、見上げれば木々がうっそうと茂る。雑木林をみれば海からの漂流物が転がっている。崩れた家屋は1つや2つではない。

 車窓には数多くの教会が映っては消える。ひたむきに信仰を守り抜いた信徒の、底知れぬ思いが溢れている。

 新上五島に構成資産の1つ、頭ヶ島集落に頭ヶ島天主堂(重要文化財)がある。戦前までは教会という言葉はなく、天主堂と呼んでいた。

頭ヶ島天主堂

 頭ヶ島天主堂を建築したのは上五島出身の鉄川与助。明治12(1879)年、大工の棟梁の長男として生まれた。22歳のときに教会建築に魅了される。いくつもの教会を建て、国指定重要文化財となっているものも多い。教会建築の第一人者ともいわれるようになり、今でも高い評価を受けている。

 頭ヶ島天主堂は全国でも珍しい石造りの教会。地元で採掘した石材で、資金難で中断しながらも、10年の歳月をかけて信徒らが手作りで完成させた。鉄川氏の唯一の石造り教会建築でもある。

 「彼は仏教徒だった。だから、信徒との初めての共生のカタチが教会建築だったのだろう」(入口氏)。

 重厚な石造りとは対照的に、教会内は花のレリーフが多く、柔らかな色があふれている。天井にある十字型のアイリスは淡いピンクで、これを囲むひし形の枠組みはアメ玉のような水色。柱上部にある白い4弁のツバキのレリーフなど、明るい配色はいたるところにある。教会は別名「花の御堂」と呼ばれる。

 ステンドグラスは入口から青、赤、緑と左右対称に続き、教会内をやさしく照らす。他の鉄川の教会建築とは趣が異なる。

 「花の御堂には、特別な思いがあるかな」と、鉄川氏は後年につぶやいたといわれている。

 一行が初めて訪れた教会は、花の御堂だった。入口氏は「30秒間黙とうをします」と呼び掛けた。構成資産として各地にある教会は今後、観光地となっていくが、そもそもは祈りの場なのだ。教会内に小さく響く波の音が耳に残った。

※この記事は本紙4月21日付第1710号で掲載したものを、再編集した記事になります

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