【精神性の高い旅~巡礼・あなただけの心の旅〈道〉100選】-その66-北方文化博物館(新潟県新潟市) 地域と“運命共同体”の姿 日本人の生活文化を伝え残す
2026年10月12日(月) 配信

夏休みはゼミ旅行を実施する。今年は、新潟に本拠を置くトキエアの長谷川政樹社長の講話を聴くということをひとつのテーマにしたので、新潟とトキエアの就航地の一つである中部地区を巡った。
新潟では、以前から国内旅行業務取扱管理者の試験で頻出の北方文化博物館をぜひ学生にも一度見せておきたいと思っていたので、迷わず北方文化博物館へと足を運んだ。
北方文化博物館は、越後随一の大地主であった伊藤家の本邸である。全盛期には千三百町歩を超える田畑を所有したという。65もの部屋を持つ大邸宅、巨大な米蔵、そして大広間の向こうに広がる見事な庭園、現在は国の登録有形文化財となっている。そしてここは、1946年に財団法人として発足した、戦後初の私立博物館でもある。
しかし、この館が現在まで残ったこと自体が大きな奇跡であった。

敗戦後、GHQによる農地改革によって伊藤家の広大な農地はその所有を離れた。そして屋敷も存亡の危機に立たされた。伊藤邸を取り壊し、その木材を使って学校を建てる計画を遂行するために伊藤邸を訪れたのが、GHQ民間情報教育局(CIE)のラルフ・ライト中尉だった。
私は「CIE」と聞いて思わず反応した。CIEは戦後日本の教育改革に深く関与した部署である。以前「観光人文学の遡航」で戦前の複線型の教育体系が単線型へと大きく転換した経緯を執筆したが、その改革に深く関わったのがまさにそのCIEである。
ところが、ライト中尉が当主の七代目伊藤文吉と話しているうちに、思いもよらないことが分かった。2人はともにアメリカのペンシルベニア大学で学んでおり、文吉はライト中尉の先輩だったのである。

ここから歴史は思いがけない方向へ動く。ライト中尉は、この屋敷を単なる旧地主の豪邸ではなく、日本人の生活文化を伝える文化遺産として残すことに共感した。そして文吉も、屋敷を私有財産として守るのではなく、博物館として後世に残す道を選んだ。
もし文吉が若き日にアメリカへ渡っていなかったら、もしペンシルベニア大学で学んでいなかったら、この館は間違いなく取り壊されていた。1人の青年が海外で学んだ経験が、何十年という時を経て故郷の文化を救うことになったのだ。
そして館内を歩きながら、もう一つの疑問が私を捕えて離さなかった。
当時の豪農は、本当に小作人から富を吸い上げ、自分だけが豊かに暮らしていた存在だったのだろうか。
越後平野はもともと低湿地が広がり、洪水との闘いを繰り返してきた。河川を治め、水を抜き、土地を農地へと変え、それを維持するには莫大な資金と人を動かす力が必要だった。豪農は土地の所有者であると同時に、地域の農業を動かす「経営者」でもあった。
伊藤家に残る巨大な囲炉裏の話も印象的だった。村人たちは伊藤家へもらい湯に訪れ、囲炉裏を囲んで村の出来事を語った。伊藤家ではそこで病人や婚礼などの情報を知り、見舞いや祝いを手配したという。また、六代目伊藤文吉の婚礼では、三日三晩にわたって料理が振る舞われた記録が残る。地主と小作人という言葉だけでは説明できない地域共同体の姿が、そこにはあった。
もちろん、農地改革によって多くの自作農が生まれたことには大きな歴史的意味がある。しかし一方で、現在の日本農業は、農地の細分化、後継者不足、耕作放棄地という深刻な問題を抱えている。土地を「所有する者」を代えることで、土地を長期的に「経営する主体」を見事に失ってしまった。
もしGHQによる農地改革がなかったら、海外で経営を学んだ文吉は、この広大な農地を近代的に経営し、伊藤家を世界的な農業企業へ発展させていたに違いない。
この雄大な屋敷と見事な庭園を前にしていると、想像がどんどん膨らんでいく。

北方文化博物館に残されているのは、豪農の贅沢の跡ではない。土地を経営し、人を束ね、地域とともに生きようとした、生き生きとした運命共同体そのものである。
学生たちに声を掛けながら、私はもう一度庭園を振り返った。
若い日に外の世界を見ることが、何十年か後に、自分の故郷を救うという奇跡につながったことをここで気づいてほしいと、この美しい庭園を改めて見ながら強く願った。
■旅人・執筆 島川 崇
神奈川大学国際日本学部国際文化交流学科教授。2019年「精神性の高い観光研究部会」創設メンバーの1人。

