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「観光人文学への遡航(34)」 秘密曼荼羅十住心論⑤絶対肯定の世界

2023年5月1日(月) 配信

 小乗仏教と比して大乗仏教の本質を表しているのが「空」の概念である。世の中はすべて空であるからこそ、所有欲も当然なくなるし、従って区別も差別も当然ない。金も地位もすべて実体はないのだから、羨むことも妬むこともない。

 

 ただ、空こそがすべてと感じてしまうと、虚空という言葉があるように虚無的になってしまう。第7住心の域に達した人は、空を理解すると同時に、いくら頑張っても、情熱的に生きても何も変わらないと冷めてしまうのである。

 

 大学教員にも多いタイプだが、メディアのコメンテーターのなかにも、世の中を冷めて見ることに格好良さを感じている人が目につく。そういう冷めた態度に知性を求めている需要があるから、そういう人たちがいかにも自分は世の中を俯瞰しているかの如く振る舞っているけれども、これは虚無主義である。本来の空はそのような悲観的、厭世的なものではなく、コヘレトの言葉を解説した小友牧師の言葉を借りると、「束の間」。人生は短いが、だからこそ、日常の小さな出来事さえもすべて生きる価値・意味があるのだと、コヘレトは逆説的に説いている。

 

 先日亡くなった音楽家の坂本龍一氏の愛した「芸術は長く、人生は短し」という言葉には、悲観的、厭世的な香りはまったく感じない。人生への大いなる讃歌を感じる。だからこそ、空は、決して虚しくはなく、束の間なのである。

 

 その境地を表しているのが、第8住心の「一道無為心」である。空は絶対否定ではなく、むしろ絶対肯定である。「一道」とは唯一絶対である仏の教えを指す。「無為」とは作為的なものがないということだ。空は清浄な世界だからこそ、作為的なものが一切ないという境地である。この世界を一つの大きな乗り物に例えて、その乗り物は仏の加護のもと、乗客皆が救われている状態を表している。すなわち、この住心は、すべてに仏性が宿されていることを悟る段階であり、宗派としては天台宗に相当する。

 

 しかし、ただ本性、すなわち生まれながらに持っている極めて清浄な世界が究極なのではない。現状にこそ究極の世界があると考えるのが、第9住心の「極無自性心」である。これが華厳宗の立場である。華厳宗といえば、奈良の大仏が象徴的である。奈良の大仏は、盧舎那・毘盧遮那と呼ばれ、これはサンスクリット語のヴァイローチャナの音訳であり、光明があまねく照らすという意味である。中国洛陽の龍門石窟にある大盧舎那仏を手本に作られたと言われている。

 

 華厳宗では、「初発心時、便成正覚」という言葉があるように、初めて発心したときにはもう仏の世界に入っているという境地である。涅槃の境地に至るには気の長くなるような修行の期間が必要といわれているけれど、華厳宗では、発心こそが重要なのだと説いているのである。

 

島川 崇 氏

神奈川大学国際日本学部・教授 島川 崇 氏

1970年愛媛県松山市生まれ。国際基督教大学卒。日本航空株式会社、財団法人松下政経塾、ロンドンメトロポリタン大学院MBA(Tourism & Hospitality)修了。韓国観光公社ソウル本社日本部客員研究員、株式会社日本総合研究所、東北福祉大学総合マネジメント学部、東洋大学国際観光学部国際観光学科長・教授を経て、神奈川大学国際日本学部教授。教員の傍ら、PHP総合研究所リサーチフェロー、藤沢市観光アドバイザー等を歴任。東京工業大学大学院情報理工学研究科博士後期課程満期退学。

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