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「観光人文学への遡航(27)」 空海と最澄①

2022年10月1日(土) 配信


 中学1年生になる次女が今ちょうど歴史を習っていて、平安時代の仏教は最澄の開いた天台宗と、空海の開いた真言宗の2つの宗派があり、最澄と空海は意見の食い違いから不仲になったと習っていた。

 
 まだ中学生だから、歴史の大まかな流れを押さえることにとどまっているからこれでもいいのだろうが、空海と最澄の関係性もまたドラマがある。

 
 最澄は767年に生まれた。両親とも京の有力者であった最澄は幼いころから陰陽、医方、工巧に才能があり、7歳で仏道を志した。18歳から比叡山に籠り、修行を始める。24歳で修行入位という僧位を受け、順調に僧としてのキャリアを積む。

 
 ときの天皇である桓武天皇は、乱れた政治を正すため、平安京に遷都し、勢力争いの絶えない奈良仏教とも一線を画した。その桓武天皇に最澄は重用され、既得権益化した奈良仏教ではない、すべての国民が救われる新たな仏教を構築するよう指示した。

 
 そもそも奈良仏教の南都六宗は中国では比較的新しい宗派であり、それよりも先に成立した天台宗に伝わる法華経を学んでくることが求められた。最澄は当初弟子を唐に派遣しようとしたが、桓武天皇は最澄自身が唐に入り、直接学んでくることを求めた。その当時の遣唐大使よりも倍以上の旅費をもらったことからも、桓武天皇の最澄に対する期待の高さが見て取れる。最澄は1年間天台山に滞在して、教義を学んでくることとなった。

 
 対して空海は774年生まれ。年は7歳の差であったが、仏道を志したのが遅かった。15歳で母方の叔父から学問を教えてもらい、19歳で修行の道に入るが、その後の足取りが分かっていない。

 
 最澄が各方面からの大いなる期待を背負い、準備万端で遣唐使船団に乗り込むのが803年、このとき最澄は36歳。桓武天皇からの信頼も厚く、まさに今後の日本仏教を背負って立つ若き星であった。

 
 このときに29歳であったまだ無名の学問僧空海は、長期留学生として最澄と同じ遣唐使船団に乗り込むことになる。

 
 2人が乗った遣唐使船団は激しい嵐に見舞われ、4艘のうち2艘が行方不明となるも、最澄の搭乗した船は無事目的港にたどり着いた。最澄は目的地である天台山を目指した。

 
 天台山において、最澄は順調に高僧と会うことができ、大量の書物も賜った。そして、日本人で初めて灌頂を受け、天台宗の正当な継承者として認定され、1年後晴れて日本に帰国することとなった。

 
 桓武天皇も最澄の帰国を喜び、最澄のことを「まことに国師たり」と称えた。

 
 しかし、その1年後にまだ無名の学僧空海がさらにその上をゆく教義をひっさげて帰国するということは、このときの最澄は夢にも思っていなかった。

 

島川 崇 氏

神奈川大学国際日本学部・教授 島川 崇 氏

1970年愛媛県松山市生まれ。国際基督教大学卒。日本航空株式会社、財団法人松下政経塾、ロンドンメトロポリタン大学院MBA(Tourism & Hospitality)修了。韓国観光公社ソウル本社日本部客員研究員、株式会社日本総合研究所、東北福祉大学総合マネジメント学部、東洋大学国際観光学部国際観光学科長・教授を経て、神奈川大学国際日本学部教授。教員の傍ら、PHP総合研究所リサーチフェロー、藤沢市観光アドバイザー等を歴任。東京工業大学大学院情報理工学研究科博士後期課程満期退学。

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