2026年8月15日(土) 配信

以前、空海の足跡を訪ねて四国を巡った。仏教学者の竹村牧男東洋大学名誉教授は、宗教における旅は、真理を求めて諸国をめぐる「求道の旅」と、その真理を世間に伝える「伝道の旅」とがあると表現した。
全国に空海伝説があり、こんなところまで空海は足を運んだのかということに驚かされるが、その地域の人々が口から口へと伝えてきた空海のエピソードを紐解くと、まさに求道と伝道との両方が見られた。
空海は生涯を旅に生きた人だった。その空海が求道のために遣唐使船に留学生として乗り込み、伝手もないのに唐に飛び込んでいったときにたまたま出会ったのが密教の正式な継承者の恵果であった。
恵果は長安の東に生まれ、出家したあと、金剛頂系の密教と大日経系の密教を学ぶことで、両系統を統合した張本人だ。
この大日経系の密教を発展させたのが善無畏であり、恵果の師匠の師匠に当たる。密教が発生してから真言宗として日本に伝わるまでの8人の立役者が「伝持の八祖」と称されているが、この第5祖が善無畏、第7祖が恵果、第8祖が空海である。

善無畏は、637年インド中部の貴族家庭に生まれる。幼年より神童と称され、若くして摩伽陀国の国王となるも、兄弟が反乱し、それを鎮圧したあと、俗世を離れ出家した。ナーランダー寺院にて真言密教の奥義を授けられ、その後諸国を歩き、真言密教の教えを弘く伝える旅に出る。善無畏の旅はついに716年唐・長安まで至る。善無畏はそのとき80歳になっていた。長安において、玄宗皇帝の深い信任を受けて「大日経」などを漢訳する。帰国を望んでいたが叶わず、735年98歳で入滅する。
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この善無畏が日本に来ているという伝説があり、各地に善無畏の足跡が見られる。その伝説は、年代不詳の福岡県・篠栗町若杉山、717年の京都府京丹後市縁城寺、718年の富山県南砺市安居寺と奈良県橿原市久米寺、そして、720年横浜市弘明寺と見事に年代が一致している。
まさか唐の高僧が80を過ぎて日本になんか来るはずがない、口伝だけで公式な記録に残っていないからこんなものはでたらめだと歴史学者の声が聞こえてきそうだが、まったく荒唐無稽だと片づけてしまっていいのだろうか。現に善無畏は70代でインドから唐まで伝道の旅を敢行しているのである。その先の日本まで足を延ばすことなど、それまでのインドから唐の旅に比べたらたやすいものである。
観光は歴史学研究とは違う。その地に根差した伝承に触れ、その時代・出来事を想像する。荒唐無稽だ、証拠がない、だから無価値のニセモノだと切り捨てるのではなく、なぜこんな伝承がこのような長い間人々の口を伝って残ってきたのか、その過程に想いを乗せていく、それは十分に価値のある行為である。歴史ドラマでも史実通りやれとの意見が最近とくに強くなっているからこそ、時代劇が衰退してしまったのではないか。史実史実と言うことで、制作者は委縮している。これは、観光現場でも最近同じ現象が見られるようになってきた。地元に伝承として残っているということは、それだけで価値のあることで、それを楽しみに行くことはなんら咎められるものではない。
空海は798年に大学を中退して求道の旅に出たが、その旅の途中で、この密教についての情報を得たに違いない。中国には日本のそれとは異なる新しい仏教があるということを聞き、804年に留学生として遣唐使船に乗る。どこかでこの伝説と出会っていなかったら、遣唐使船に乗ることには至らず、結果、真言宗が日本に伝わることはなかった。

荒唐無稽と切り捨てるニヒリズムよりも、善無畏の心を想像する素直な心を持ち続けたい。善無畏の心と一体となってこの寺を見ていたら、ここは真言宗なのに信徒全員でお経を一緒に唱えるという珍しい風習が定着していることも不思議と心にしみわたっていく。きっとこれは善無畏の心に違いないと思えた。
■旅人・執筆 島川 崇
神奈川大学国際日本学部国際文化交流学科教授。2019年「精神性の高い観光研究部会」創設メンバーの1人。


