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「観光ルネサンスの現場から~時代を先駆ける観光地づくり~(196)」 近江商人の町のホフマン窯(滋賀県近江八幡市)

2021年5月23日(日) 配信

重伝健・八幡堀の風景

 近江八幡といえば、近江商人、日牟禮八幡宮と八幡堀、それにウィリアム・メレル・ヴォーリズなどを想起されようか。

 秀吉が築いた城下町を基盤に、近世以来は商業都市として発展した。近世の風情が色濃く残る新町通りや永原町通り、八幡堀沿いの町並みは、国の「伝統的建造物群保存地区」として選定(1991年)された。2005年に伝建地域を含む湖畔、水郷地域など160㌶に及ぶエリアが、景観法に基づく「景観計画地域」に指定された。これは同法の適用第1号でもある。

 昨年末開催された、日本遺産「琵琶湖と水辺景観」の活用を目的としたフォーラムに参加し、久々に八幡堀をご案内いただいた。「祈りと暮らしの水遺産」は琵琶湖沿岸の市町村に共通する文化であるが、ここ近江八幡の景観と暮らしは、まさにその象徴である。また、八幡といえば、八幡瓦も有名である。八幡堀の底泥を掬い、これを瓦の原料にするというエコロジカルな循環も特筆される。

 そんな八幡堀の一角で、どうしても訪ねたい場所があった。それは、この地に残る旧中川煉瓦製造所のホフマン窯である。八幡堀に沿って旧市街を少し離れた辺りにある煉瓦製造所は、旧社名「湖東組」として1883(明治16)年、県内で最初にレンガ製造を始めた。現存するホフマン窯の築造年は不明だが、明治末ごろから操業し、大正時代に年数100万個のレンガを生産していたという。もちろん原材料や製品は、八幡堀の舟運によって運ばれていた。

旧中川煉瓦製造所のホフマン窯

 ホフマン窯はホフマン式輪窯とも呼ばれ、ドイツ人技師ホフマン(Friedrich Hoffman)が考案。日本では、明治初期の銀座煉瓦街建設のために、東京・小菅の東京集治監(現東京拘置所の敷地)に窯3基を設置したのが始まりと言われる。それまでの煉瓦窯では、焼成前の生煉瓦を入れて焼き上げ、熱が下がってから煉瓦を取り出し、また生の煉瓦を入れるといった工程を繰り返していた。ホフマン窯は、窯を環状(円形、楕円形など)に配置して、連続して煉瓦を製造できるようにした画期的な窯である。最盛期には全国に50基ほどあったが、現存するのは、この旧中川煉瓦製造所の窯を含めて全国に4基しかない。

 窯は、明治末からの長い歴史を刻んできたが、1967(昭和42)年に煉瓦製造を中止して以来、半世紀が経つ。最盛期は20の関連施設があったが、今は老朽化したホフマン窯と屋根の抜けた旧機械場、事務所棟の建物のみが残る。現在、隣接する社会福祉法人一善会・赤煉瓦の郷が管理し、見学はできるが活用の目途は立っていない。

 八幡堀や近江商人の町とともに発展してきた窯であり、船着場やギャラリー、煉瓦館などの再整備を行い、八幡堀として地域の一体的な再生をはかりたい。八幡の町の隠された大きな資源として注目したい。

(日本観光振興協会総合研究所顧問 丁野 朗)

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