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【特集No.610】エクセルイン名古屋熱田 稼働率40%でも収益出せる経営

2022年5月17日
編集部:増田 剛

2022年5月17日(火) 配信

 高品質のおもてなしサービスを提供することで、お客の強い支持を得て集客している宿の経営者と、工学博士で、サービス産業革新推進機構代表理事の内藤耕氏が、その人気の秘訣を探っていく対談シリーズ「いい旅館にしよう! Ⅲ」の10回目は、愛知県「エクセルイン名古屋熱田」社長の苅谷治輝氏が登場。稼働率40%でも収益を出せる“危機に強い経営体質”に変えていく過程で、取引業者の全面的な見直しや、清掃業者を立ち上げるなど、さまざまな改革を進めてきた苅谷社長と内藤氏が科学的な視点から語り合った。

【増田 剛】

 苅谷:1999年2月に父がビジネスホテル「エクセルイン名古屋熱田」を開業しました。元々は代々続く卸問屋で、私は5代目になるはずでした。
 当時は年商70億円ほどあったようですが、卸問屋を取り巻く経営環境が難しくなってきていたので、営業権を譲渡して倉庫を取っ払い、その土地に両親はさまざまな職種の中から、ビジネスホテル経営を選択しました。
 当時この付近にはビジネスホテルがほとんどなく、愛知万博(2005年)への期待や、近隣にある工場関連で、ビジネス需要を見込んでいたようです。開業から間もなく稼働は安定し、愛知万博のころは満室が続いていました。内部はボロボロでしたが、高稼働率で推移していました。
 その後、08年のリーマン・ショック、11年3月の東日本大震災で経営が悪化していきました。企業の出張が減るなかで、経営にも大きく影響が出ていたのです。 

 内藤:内部がボロボロとはどういう状態だったのですか。

 苅谷:例えば、レジのお金を盗むとか、夜勤のスタッフがパチンコに行っているとか、簡単に言うと、モラリティの欠如です。父もスタッフに任せきりで、内部の状態には無関心でした。でも、離職率はほぼゼロで、逆に言うと、スタッフにとって生ぬるく、あまりにも居心地が良過ぎる“最悪”の職場でした。
 震災後の11年5月に私は「FRINGE(フリンジ)」というWeb制作会社を立ち上げました。手始めに父が経営するホテルのホームページのリニューアルをやらせてもらおうと営業に行ったときに、従業員とも話す機会がありました。
 そのとき、愚痴や不満などが山ほど出てきて、一番中心的なスタッフから「このままではまずい。ホテルに帰れないか」と聞かれたほどでした。

 内藤:フリンジを立ち上げるまではホテルに入ることは考えてなかったのですか。

 苅谷:まったく考えていなかったですね。

 内藤:当時は何をされていたのですか。

 苅谷:大学を卒業してからは、主に大手製造業向けのコンサルティング会社で新規事業開発や中長期経営戦略のようなコンサル業に携わっていました。

 ――大学院では航空宇宙工学を専攻されていたのですか。

 苅谷:企業との共同研究で配電盤やモジュールの最適設計など、生産工学に近い研究をしていました。やがて、論文のための研究に没頭するのは、自分の中では「やりがいに乏しい」と感じ始め、外資系のコンサル会社や証券会社も受けて内定はもらっていました。なかでもコンサル業は「自分が想像していた以上に泥臭いことをやっている」という印象で、魅力的に感じました。
 その後、ベンチャー企業の手伝いなどもしながら、フリンジという会社を自分で立ち上げました。

 内藤:商売として成り立ってきたのはいつぐらいですか。

 苅谷:半年が経過したくらいからです。2年ほど経ち、ようやく軌道に乗り始めた13年の12月に、父から「ホテルの経営が厳しい」と相談されました。
 私が承継する条件として、「父が事業から一切手を引くこと」で受けました。32歳でした。
 翌14年のゴールデンウイークに準備をして6月に代表としてホテルに入りました。

 内藤:さまざまな問題があるなかで、どのように乗り越えていかれたのですか。

 苅谷:一番大きかったのは、人の問題です。社内ではモラリティの欠如、社外では取引先とのコスト意識のない契約ばかりでした。
 社内はコンサルの手法でいきなり抜本的に改革をしようとしたら、崩壊しました。「人」の案件は、単純に分かりやすい組織図に当てはめようとすると上手くいかないということを実体験として学びました。
 将来を担えそうな中核的な人材を選んで、マルチタスクの仕組みを説明し、「高額な報酬で優秀な人材を集めて最強集団にしていこう」と考え、それに付いていけない人は去っていきました。しかし、抜擢したスタッフも接客が本来得意なのに苦手な管理業務をやらせてしまったりして、結果上手く機能せず、本人も重圧に潰れてしまうなど、ズレが生じてきました。新しく入った人材もそのような環境に馴染めず、すぐに辞めていく悪循環が続いていました。

 内藤:どのくらい続いたのですか。

 苅谷:2年目にようやく少し安定し始めましたが、14年に私が結婚し、結婚式の直前に脳梗塞になりホテルを離れた間に、現場でパワハラなども生じて、再びスタッフが離れていきました。
 そこで、私と妻がホテルに入り、日中は妻が、全体は私が管理する体制で張り付いて変えていきました。
 それ以降、比較的安定していますが、上手く回り始めたと思うと1年くらいで陳腐化していくサイクルが続き、これまでの経験上、適度にスタッフの入れ替えがないと、組織は腐っていくということを感じています。
 一方で、自分自身もあれだけ「改革しよう」と言いながら、安定を求め始めていることに気づきました。だからこそ過去の実績に固定してしまうことを避けるために、さまざまな会社を作り、自ら刺激を求めているのだと思います。ホテルの経営は安定しています。

 内藤:利益が出るようになった一番の原因は何ですか。

 苅谷:父が土地と建物を所有しそれを借りていましたが、法人として買い取り、損益計算書(PL)では億単位で増益となりました。高額な税金を払うかたちになりましたが、貸借対照表(BS)をベースに、いつでも払い戻しができる返戻率の高い生命保険などにも入り、コロナ禍のような危機が訪れた時に使えるように準備をしていました。
 取引先の業者はすべて見直し、収益はⅤ字回復をしました。

 内藤:具体的にどのようなことをやられたのですか。

 苅谷:清掃業者を別会社で立ち上げ自社ホテル以外にも清掃事業を始めました。社会保険労務士や税理士も変えました。アメニティやリネン会社も変え、その過程で新しいリネン会社が進出できていなかった名古屋への市場進出の手助けもしました。すべて全国から相見積もりし、安いだけではなく、一番マッチするパートナーを選定し、結果9割ほど変えました。

 内藤:オーナー企業の場合、相見積もりすらしません。

 苅谷:業種によっては談合があることも知りました。地元の付き合いも大事ですが、本当に品質が優れているのか、対応は迅速か、最新の技術を取り入れているかなどを見極める必要があります。今でも「他社はこんなサービスをやっていますが、どうですか」など、契約更新は厳しく行っています。
 24時間カスタマーサポートのサービスも今必要なければ切っていく。社外の部分でこのリースは本当に必要なのかなど細かく見直しています。

 内藤:慣れ合いではなく、互いの関係に緊張感が持てますね。

 苅谷:コンサルを経験していたことが大きいと思います。

 内藤:清掃を内製化したのは、どこに問題点を感じたのですか。……

【全文は、本紙1859号または5月25日(水)以降、日経テレコン21でお読みいただけます】

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