2025年8月9日(土) 配信

仏教にはあまたの経典が存在する。キリスト教には聖書があり、イスラム教にはコーランがある。そのような聖典がない神道は、教義がないとみなされてしまい宗教としては不十分だという人がいるが、それは極めて表面的な理解である。神社に伝わる祝詞に込められたメッセージを読み解くと、人はいかに生きるべきか、シンプルかつ感覚的に理解できる。
祝詞のなかでも、最も権威のあるものが、「大祓詞」である。大祓詞は、日本全国の多くの神社において、毎年6月末と12月末に行われる神事で奏上される。6月末の神事を「夏越の大祓」、12月末の神事を「年越の大祓」と呼ぶ。
大祓詞は、前半で日本という国の建国がどのようになされてきたかが描かれ、後半ではその後国民が罪を犯したときに、その罪をどう消し去ることができるかが描かれている。
とくに後半部分で、4柱の神々がリレーのように人々の犯した罪を運び、消し去っていく描写は、ダイナミックで気持ちがよい。その部分をここで改めて現代語訳する。
――高山の頂や低山の裾から、谷川の急流に落ち流れ、その急流の川の瀬におられる瀬織津比売という神が、それらの罪を大海原へ持って行ってくださるでしょう。
それを大海原に持ち出したなら、荒々しい潮流の八方の分かれ道におられる速開都比売(はやあきつひめ)という神がそれを呑み込んでくださるでしょう。
それを呑み込んだら、息吹の戸におられる氣吹戸主(いぶきどぬし)という神が、根の国・底の国へと吹き放ってくださるでしょう。
それを吹き放ったなら、速佐須良比売(はやさすらひめ)という神が、持ってさまよって、消し去ってくださるでしょう。――
大祓詞(おおはらえのことば)を奏上するとき、まさにこの神々のリレーの部分が清々しい気分にしてくれる。私たちは、建国の神々に守られている。罪を犯しても、反省し、きちんとその罪に向き合い、二度と起こさないとの誓いを立て、祓うことで自分自身を清め、本来あるべき高天原のような澄んだ心に立ち戻ることで、神々はちゃんと見ていて、その罪を消し去ってくださる。その神々との一体感こそ、日本人の強さと気高さだ。

先日、高千穂神社を訪問したときに、瀬織津姫という看板を見つけた。もしかしてこれは大祓詞に登場する急流の谷側の瀬に住む瀬織津比売のことかと思い、矢印に沿って行ってみた。急流が削った谷川に向かって急勾配の舗装されていない参道を降りていく、神社としては珍しい下り宮である。
すると、まさに谷川の絶壁に小さな祠があった。
絶壁にある小さな祠が瀬織津姫神社
ここに瀬織津姫がいらっしゃって、急流を使って人々の犯した罪を海へと持って行ってくださるんだと思っていると、本当にここに瀬織津姫がいらっしゃるような雰囲気だ。木々の中から、「私を呼んだ?」って今にも現れてこられそうな気分になる。
地形を見ると、ここは天岩戸神社のほうから流れて来る岩戸川に、小さな永ノ内川が合流した場所であり、ほかにも多くの小さい川が流れ入るところである。この瀬の勢いは、すべての罪を海へと流し去るにふさわしい場所だと実感した。
看板は「瀬織津姫」
この祠は、瀬織津姫神社と表記されているのだが、ここに入る入口前の看板は「瀬織津姫」と書いてあった。まさに、神社というより、瀬織津姫に会える、そんな場所である。
この谷川の先の日向灘に速開都比売が待ち構え、人々の罪という罪を呑み込むために大きな口を開けているのかと思うと、速開都比売に会いに河口の延岡にも行ってみたくなった。
■旅人・執筆 島川 崇
神奈川大学国際日本学部国際文化交流学科教授。2019年「精神性の高い観光研究部会」創設メンバーの1人。