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【特集No.560】オーベルジュ 山ぼうし 1客と真正面から向き合いたい

2020年7月31日
編集部:増田 剛

2020年7月31日(金) 配信

 高品質のおもてなしサービスを提供することで、お客の強い支持を得て集客している宿の経営者と、工学博士で、サービス産業革新推進機構代表理事の内藤耕氏が、その人気の秘訣を探っていく対談シリーズ「いい旅館にしよう! Ⅲ」の5回目は、「オーベルジュ 山ぼうし」(福岡県糸島市)の小林美智代女将が登場。カフェスタイルのサービスでは、十分に対応ができないためクレームが生じていたが、1日1組限定で「お客様と真正面から向かい合う」スタイルに変化を遂げる過程を、内藤氏とともに語り合った。

【増田 剛】

 小林:生まれは福岡県北九州市の小倉です。実家は小倉で茶懐石の料亭「向陽庵」を営んでいました。
 この糸島で古民家を購入して「季節料理 浮岳茶寮」を始めるときに、「こんな場所にお客が来るわけない」と周囲の人に言われました。でも、向陽庵も小倉の街を見下ろす山の上にあり、完全予約制でやっていましたので、街中の路面店よりも自然に囲まれた山の中のお店というのが、自分にとっては慣れ親しんだイメージでした。
 30代から40代の初めまで東京で仕事をしながら生活をしていました。
 そのときに、「東京は住居と職場までの通勤アクセスが大変だ」と感じました。糸島は海や山に囲まれ、自然に恵まれているにも関わらず、博多から近い。福岡空港からのアクセスもとてもいいので、お客様を迎える環境としては抜群の立地だと思っています。

 内藤:向陽庵はどのようなスタイルでしたか。

 小林:仕舞屋だった建物を改修したものでした。母がお茶を教えていましたので庭に茶室を作りました。父方は代々、能が好きだったので、能舞台も構えました。
 昼は茶室と桟敷席で本席、ホタルの時期は京都の川床のように、川で食事を提供していました。
 夜は地元の企業経営者や、政治家らが「顔が差す」ことなく利用できるように配慮し、せいぜい2―3組でした。私も東京で仕事をする31歳まで接客や料理の仕込みなども手伝っていました。

 内藤:どうして東京で就職しようと思ったのですか。

 小林:高校、大学も福岡市内だったため、「九州を出て自分が社会に通用するのか試してみたい」という気持ちが強かったのだと思います。…

【全文は、本紙1801号または8月6日(木)以降日経テレコン21でお読みいただけます。】

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