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「登録有形文化財 浪漫の宿めぐり(82)」(静岡県伊豆の国市)三養荘≪広大な庭と瀟洒な建物は旧三菱財閥の別邸≫

2018年2月3日(土) 配信

独立した一軒家のような老松の間。前面の大きなガラス戸には建築当初の古ガラスもある

 敷地4万2千坪。刈り込まれた庭木の茂る中に、ゆったりと木造平屋建ての建物が配置されている。池があり、散策路がめぐり、わずかな起伏の付いた芝生地が続く日本庭園は、1軒の旅館とは思えないほど広い。

 もともとは旧三菱財閥3代目総帥の岩崎久彌が建てた岩崎家別邸だった。竣工は1929(昭和4)年。庭園の背後に伊豆の山々を望む眺めを、京都東山の風景になぞらえた。庭木の様子や庭石の配置も京風に整え、庭づくりは京の庭師である7代目小川治兵衛にかかわりがあったともいう。久彌は別邸に「神を養い精を養い気を養う」として「三養荘」と名称を付けた。

 岩崎家の所有を離れたのは太平洋戦後のことで、堤康次郎が率いる西武グループが入手。1947(昭和22)年に三養荘の名のまま客室15室の旅館としてオープンした。後に離れや新館を増築し、現在は全36室で営業。その中で客室5室や茶室がある本館と、庭にある待合などが登録有形文化財になっている。

 本館は岩崎久彌が建てた当初の建物が中心で、木造平屋一部2階建て。全館数寄屋造りである。屋根を人造スレートと銅板で葺き、各室が南北に連なるようすは庭の中に置かれたバランスがまことにいい。

 南側にある本館の玄関から入ると、広めの沓脱は天井が屋久杉と思われる板の市松張り。白磁の照明傘は久彌が使用していた時代のものという。

 館内の廊下はすべて畳敷きで、5つの客室は独立性が高い。客間として使われていた老松の間は三方を畳の広縁に囲まれて開放感があり、12畳の本間に10畳と6畳の和室が続く。本間の床の間は床柱が杉の四方柾の角柱で書院付き。面皮柱と二重の廻り縁がしゃれている。良材を使いながらどことなく柔らかく、それでいて力強さも感じるのは建物全体に通じる印象だ。

 久彌が居間に使ったのは松風の間。やはり三方が畳の広縁で明るく、庭と借景の伊豆の山々の展望がいい。床の間は床脇までつながる長さ4㍍以上の松の地板が敷かれ、洞口のある仕切り壁は錆丸太の床柱付き。小督の間という別室もあり、くつろぎ豊かなこの客室を好む常連客がいるのもうなずける。

 長い廊下の先にある御幸の間は、昭和天皇・皇后の行幸啓に際し1957(昭和32)年に新築された。12畳半の本間のほか次の間、三の間、化粧の間があり、庭に向けた間口は15㍍以上。広々した間取りをすっきりとまとめ、三の間の舟底天井や畳廊下の傾斜天井が変化をつける。本間、次の間の猿頬面竿縁天井は他の客室にはない。奥まった一層の静けさが魅力だろう。

 さて三養荘の建物の大半は1988年に建てられた新館である。文化財に登録されてはいないが、設計は建築家の村野藤吾。三養荘では宿泊客対象に庭園散策ツアーを実施している。新館にも興味を向けたいものだ。

(旅のルポライター 土井 正和)

コラムニスト紹介

旅のルポライター 土井 正和氏

旅のルポライター。全国各地を取材し、フリーで旅の雑誌や新聞、旅行図書などに執筆活動をする。温泉、町並み、食べもの、山歩きといった旅全般を紹介するが、とくに現代日本を作る力となった「近代化遺産」や、それらを保全した「登録有形文化財」に関心が強い。著書に「温泉名山1日トレッキング」ほか。

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