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「観光ルネサンスの現場から~時代を先駆ける観光地づくり~(190)」 石から読み解く中世・近世のまちづくり(福井市・勝山市)

2020年11月29日(日) 配信

石の技術のルーツとなった白山平泉寺(福井県勝山市)

 6月19日、今年度の日本遺産21件が新規認定された。2015年以来認定を重ねてきた日本遺産はこれで104件となり、当初目標の100件に達した。

 改めて各地の日本遺産物語を振り返ると、どの地域も、その骨格作りには大いに苦労している。とくに複数市町村が関係する物語では、そこに共通の資源やストーリー素材を組み立て編集する必要があるからである。19年に認定された福井市と勝山市の日本遺産「石から読み解く中世・近世のまちづくり」もその1つである。

 この物語の発端は、室町時代後期(1450年ごろ)までの最盛期に、48社36堂6千の坊院を持ち8千人の僧兵を要したといわれる白山平泉寺(勝山市)である。白山信仰の拠点で、最盛期は比叡山延暦寺を凌ぐといわれた巨大な宗教都市があった。一向一揆により全山焼失するが、平成初期から始まった発掘調査では、苔むした社寺跡からは中世の石畳道が次々と姿を現し、石造りの泰澄大師廟や楠木正成の墓、無数の石仏などもみられる。

 平泉寺の石組技術は、福井の石のまちづくりのルーツとなり、その50年後に整備された一乗谷朝倉氏居館にも受け継がれた。城下町の入り口には巨石を5メートルもの高さに積み上げた城戸が威容を誇っている。朝倉氏の居館跡や家臣の屋敷跡には石垣の区切りや礎石が数多く残されている。笏谷石製の井戸枠やバンドコ(行火)、などが往時の城下町のにぎわいを伝えている。

 1573(天正元)年、織田信長と朝倉義景の戦いで一乗谷が滅びたのち、越前を拝領した柴田勝家は福井市中心部の北ノ庄に7層(9層とも)の天守や笏谷石製の瓦が葺かれた城下を開いた。徳川家康が天下を統一して以降は、結城秀康が越前に新たな城(のちの福井城)を築いた。今に残るこの城は、四重の堀に約4万個とも言われる笏谷石の石垣や天守台が日本一壮麗な城と言われる。

 随所に用いられた笏谷石は、至近距離にある足羽山から大量に供給され、松平家の菩提寺大安禅寺の廟所「千畳敷」や福井藩主松平家別邸の「養浩館」などにも数多く用いられている。この笏谷石は、北前船の船底に入れられて全国各地に運ばれ用いられたことも有名である。

 「石から読み解く」というこの物語は、石の採掘・加工を担った職人たちの技術・技能が時代を超えて、この地域共通の都市計画の底流を成しているというストーリーである。

笏谷石の採掘跡地「丹厳洞」で開かれた日本遺産フォーラム

 この日本遺産認定を生かそうと10月下旬、笏谷石の石切場跡地を活用した「丹厳洞」(料亭)でフォーラムが開催され参加した。コロナ禍でもあり、ホールではなく、日本遺産構成資産を代表する空間で小人数を集め、そのようすをライブのテレビとオンラインで配信するという新たな試みでもあった。

 日本遺産は、まさに地域を読み解いて日本を知る、百の物語でもある。

(東洋大学大学院国際観光学部 客員教授 丁野 朗)

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