「観光人文学への遡航(60)」 改めて日本の戦後教育制度の成立過程を検証
2025年6月4日(水) 配信
私の人生で大きな影響を受けた心の恩師ともいえる人物が相次いで亡くなったことから、その足跡を残しておきたいとの想いで7回にわたって追悼記事を執筆した。今月からは、それ以前に執筆していた内容に戻す。
その前は、あまりに拙速な議論で導入されようとしていたライドシェアに対して、その問題点を明らかにし、ライドシェア導入がどれだけこれからの日本を貧困化させるかということを主張した。その文脈で、タクシードライバーの人材不足よりも、バスドライバーの人材不足にもっと危機感を持って対応することを提言した。
そして、バスドライバーの年収がもらい過ぎなのではないかと、寄ってたかって叩いたことが契機となって、バスドライバーの年収が下がり、結果的にそれが人材難を引き起こした。
結局、当時は高卒なのに大卒よりも高い給料をもらっているのは許せないという議論がまかり通ってしまった。日本人の頭の中に学歴至上主義が定着し、大卒が上、高卒は下と、知らず知らずのうちに決めつけているからこういうことになる。
果たして、大学で学ぶ経験の有無はそこまで決定的な差を生んでいるのか。高卒者よりも給料を上げなければいけない根拠はどこにあるのか、そもそも大学とはどのような存在なのか。むしろ、大学に行くことで身に着くデメリットも多いのではないか。大学内部にいる人間として、そして、専門学校でも並行して教育していることで、残念ながらそれを痛切に感じている。
大学に入るためには、小さいころからテストの点での競争に明け暮れる。それによって偏差値の高低で人の価値を判断する。人を出し抜いて自分だけがいい思いをしようとする。できない人は色々な要因が重なってできないという結果になったという過程を無視して、できない人は努力不足と決めつけ、マウントを取り、自己責任の名のもとに斬り捨てる。
一部の受験の成功者は万能感に浸り、普段から論破することそれ自体に快感を抱きながら、成功者仲間とその果実を分け合う。一方、大多数の普通の市民は常に劣等感を持たされ、絶望感にさいなまれる。そんな世の中が幸せなはずがない。
お勉強ができるだけの人間だけが得をする世の中にしないために、私は観光業界と教育で最後の力を振り絞る。お勉強なんて、突き詰めれば、記憶力と高速情報探索能力だ。記憶力はクラウドに、高速情報探索能力はAIに遠く及ばない。そんなお勉強ができる人間を重用するよりも、寄り添う力、察する力、慮る力、相手の立場に立って、相手の背景も想像できる人材こそが、観光業界に必要な人材だ。
そこで、こんな学歴社会になってしまった経緯をあらためて検証していく。

神奈川大学国際日本学部・教授 島川 崇 氏
1970年愛媛県松山市生まれ。国際基督教大学卒。日本航空株式会社、財団法人松下政経塾、ロンドンメトロポリタン大学院MBA(Tourism & Hospitality)修了。韓国観光公社ソウル本社日本部客員研究員、株式会社日本総合研究所、東北福祉大学総合マネジメント学部、東洋大学国際観光学部国際観光学科長・教授を経て、神奈川大学国際日本学部教授。教員の傍ら、PHP総合研究所リサーチフェロー、藤沢市観光アドバイザー等を歴任。東京工業大学大学院情報理工学研究科博士後期課程満期退学。