2012年5月1日(火)配信

品質の高いおもてなしで、お客様の強い支持を得て集客している旅館は、従業員の職場環境を整え、お客様と真摯に向かい合える仕組みができているのが特徴だ。「いい旅館にしよう!」プロジェクトのシリーズ第3弾は、静岡県・熱川温泉の熱川プリンスホテルの嶋田愼一朗社長と、産業技術総合研究所の工学博士・内藤耕氏が客室を潰してパントリーに改装することによって、スタッフから「働きやすい」という声が上がったほか、バックヤードを「徹底的に整理整頓する」ことで生産性が大きく向上した事例などについて話し合った。
【増田 剛】
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嶋田:もともとは農家だったのですが、伊豆急行が開通する際に、「これからは観光の時代だ」と、1959年にみかん畑を潰して旅館を建てたのです。1971年に先代の父が「ニュー熱川プリンスホテル」として新たに会社を立ち上げました。父の代は、伊豆大島近海地震や当館が1983年に火災するなど苦労が絶えませんでしたが、取引業者への支払いは必ず期日に支払ってきましたし、景気の良いときにも大型の設備投資もせずに安定した経営をしていました。そして、5年前に私が経営を引き継ぎました。
現在の館内は、増築を繰り返し、複雑な構造になっています。2棟に分かれていて、客室は52室です。お客様を案内する際も、導線が長いなどのデメリットもあります。食事の提供では、調理部との導線にも課題がありました。バックヤードがなかったので、お客様と同じエレベーターで料理を運ばなければならず、評価が下がるようなこともありました。しかし、この数年はお客様アンケートの声などを取り入れながら、改善点を見出し、少しずつリニューアルを重ねてきています。 具体的には、普段あまり使っていなかった会議室兼宴会場を、個人客向けのダイニングルームに改装しました。従来の部屋食では、客室係がどのように接客サービスをしているか見えづらかったのですが、食事提供をオープンな空間でサービスすることで、熱い料理は熱いうちに、冷たい料理は冷たくお出しすることが可能になりました。また、高齢のお客様には、椅子・テーブル席を用意しました。ダイニングルームで見通しが利くので、チーフが1人いれば指示もできるし、全体を見回して社員教育もしやすくなりました。
リニューアルの際に、ダイニングルームが調理部の真上の階だったので、思い切って調理部から一番近い端の客室を上下2室潰しました。そしてエレベーターを通して、ダイニングルームに料理を運べる広めのパントリーにしました。2部屋は海の見える広い客室だったので、パントリーだけに使用するにはそれでも広すぎたので、隣室専用の露天風呂としました。グレードをアップし、付加価値をつけることによって客室単価を上げました。 ようやくバックヤードの導線を作ることができ、調理部からエレベーターで料理が運ばれてくるので、「作業がやりやすい」とスタッフの評価が高くなりました。心にゆとりができ、接客サービスに集中することができるようになったことで、お客様からの評価も大きく高まりました。私自身もダイニングルームに入り、スタッフの接客を見ることができるようになりましたし、忙しいときには社員と一緒に接客しながら、多くのことを改善することができました。現在は、最上階の1フロア12室はお客様の要望があれば、料金を少しアップして部屋食にも対応しています。
内藤 : そもそも旅館の生産性向上にどうして取り組もうとされたのですか。
嶋田 : 私は将来旅館を継ぐことを真剣に考え、4年ほど群馬県の旅館で経験を積んで熱川に戻って来ました。当時はまだ団体客が主流で、当館のサービスも大型の団体客を受け入れていた時代の、旧態依然とした旅館の都合によるものでした。しかし、私は「これからは大手旅行会社の個人のお客様の取引をメインにしていきたい」という夢を持って帰って来ましたので、少しずつ私の理想とする宿に方向づけていきました。しかし、実際はお客様の立場に立ったサービスとはかけ離れた部分もありました。自分の思いと、宿の現状のギャップに悩み、自分の力だけで変えていくことは本当に大変でした。設備投資を継続的にやってきましたが、やはり一定のところで頭打ちになってしまい、根本部分であるソフト面をしっかりと改善していかないとお客様の評価は高くなっていかないだろうという思いに至ったのです。
当時は従業員の拘束時間が長く、仕事のメリハリもなく、効率も悪かった。この部分を根本的に変えていかなければならないと思い、社内に「サービス向上委員会」などを立ち上げたりしましたが、前向な議論にはならなかったのです。だけど、自分の中では「何とか改善したい」という気持が強まるなか、静岡県の補助事業として、サービス向上の生産性支援事業があると、旅館組合から情報が回ってきました。私は意を決して応募したのです。
内藤 : 旅館に限らずサービス産業全般に、生産性というと、アレルギー反応があるところもありますが、取り組んでみてどうでしたか?
嶋田 : 事業では、まずは調査から入りました。夏の繁忙期と、その後の閑散期の2回調査し、この結果としてレポートが出たのですが、「社長は仕事が好きで全部自分で抱えてしまう」など色々な批判もありました。私は旅館に戻る前は、旅行会社などサラリーマンとしての経験もあり、「現場で社員と一緒になって働きたい」「良くしていきたい」という意識が強く、自分なりに一生懸命やってきたつもりでしたが、思いもよらぬ評価に夜も眠れないくらいに落ち込みました。
生産性向上の取り組みのなかでは、スタッフと一緒に不要な物を捨てる整理整頓から始めました。必要な物は使いやすい場所に整理しておく。皆の意見を聞きながら、「これはどこに置くべきか」など全員で納得しながら整理整頓することによって、皆がよく理解して実際働きやすくなったということを実感したのです。
内藤 : 整理整頓は具体的にどのようなことをされたのですか。
嶋田 : 整理は、とにかくスタッフ全員がそれぞれの思いでいらない物に目印を付けて、後で私も含めて話し合って思い切って捨てました。浴衣や書類などが多かったですね。残った必要な物も、そこの場所に置いておく物なのか、他の場所に置いておく物なのかを区分して、そこに置いておく物だけを残して、どこに置いたら取り出しやすく、個数も少なくて済むのか。また、日常使う物は手前、それ以外の物は奥にとスタッフ全員で話し合って決めました。引出については、すべてのフロアを同じにして、誰が行ってもすぐにわかるように整理しました。中身のわからないものは、テプラなどで表示しました。中に入れるものについても、あまり入れ過ぎず必要最低限のものだけを入れるように工夫しました。スペースも有効に利用できるようになったし、社員から「働きやすい」という声が聞けるようになりました。
生産性向上に取り組むことによって、課題も一つずつ出てきて、お客様アンケートから出てきた課題に対しても、「これを解決するには、こうした方がいい」などと現場の声が上がってきて、一つひとつ改善していきました。
内藤 : 生産性向上に取り組み始めた動機は、経営が厳しくなったからというのではなく、団体から個人客に時代の流れがシフトしていくなかで、それに対応していかなくてはならないという使命感からだったのですね。
嶋田 : 私は自分の夢というか、「お客様に評価を受けて、選ばれる旅館になっていきたい」という気持がものすごく強かったのですね。私はこれから旅館を経営していくうえで、もっと頭を使って、「社員の仕事のやりやすさ」に力を入れていきたいと思っているのです。それがお客様に評価されると考えています。もっと自分の殻を破ってやっていかないと、まだまだ足りないなと思っています。
内藤 : 経営が厳しくなって再建しなければならないケースでは、改革のモチベーションにドライブがかかる場合が多いですが、安定した経営ができているうちに団体から個人客へのシフトへ改革を進めていける経営者は少ないと思うのですが。嶋田社長の場合は、「個人のお客様から選ばれるために」自分の夢を実現することが、改革の大きな原動力だったというところが面白いですね。時代の一歩先を読んで改革していくことは、経営者としては本来あるべき姿だと思います。
嶋田 : 自分の能力の及ぶ範囲で旅館を経営していきたいという思いがありました。団体中心というのではなく、個人のお客様に宿が眼を注げる範囲ですね。時代の一歩先を読んで――というのでもなく、たまたま自然に時代と合って来たという感じです。
生産性向上の取り組みが軌道に乗り、旅館運営が利益体質になったことで、昨年の創業50周年の年に合わせて屋上の露天風呂を作る投資を行いました。 当館は熱川温泉で高台に位置しているわりには、眺めの良い屋上はこれまで何も使っていなかったのです。そこで新しく作った男女露天風呂と足湯を、「熱川プリンスはこれでいくんだ!!」とお客様に選ばれる旅館になるために、社員にも明確に示す旗振り役としたのです。
内藤 : 今後、さらに改革していきたいものはなんですか。
嶋田 : 経営的な部分で言うと、お客様のアンケートの評価はすごくよくなっています。「ここが故障している」などのクレームはあるのですが、「人に関するクレーム」がまったくなくなりました。しかし、私はまだまだと思っていて、もっとお客様に、旅館の都合ではなくて、おもてなしというものを前面に出して、社員が変わっても同じものを提供していけるようにしなければならないと思っています。
内藤 : 人的サービスの部分では、もっともっとやれることはたくさんあるという考えですね。
嶋田 : 一人ひとりの能力をもっと発揮してもらえるようなことが大切だと考えています。
地元の東伊豆町では介護旅行の受け入れを積極的に取り組んでいますが、うちの社員も車イスの構造など専門の知識があれば、お手伝いできる部分がかなりあると思います。そういう教育や知識を「社員にもっと提供してあげなければ」と反省もしています。
先日も介護旅行の研修を当館で実施しましたが、接客サービスのスタッフにはできるかぎり参加させました。すべてのお客様に親切な対応ができるように、もっと介護の専門学校などと連携しながら講習会なども用意して、旅館がそういう方向に進んでいくのだと強くに打ち出していきたいと思っています。
※ 詳細は本紙1460号または5月8日以降日経テレコン21でお読みいただけます。