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東海汽船 創立130周年 生活航路を守りながら伊豆諸島の観光に注力

2019年11月14日
営業部:後藤 文昭

2019年11月14日(木) 配信

(左から)太田理絵氏、早川佳男氏、上田直人氏

 東海汽船(山﨑潤一社長、東京都港区)は11月15日、創立130周年を迎える。同社は1889年に誕生し、18年後に伊豆諸島に暮らす島民の生活を守るために定期航路を開いた。1928年からは観光分野にも進出し、伊豆大島を観光地として整備。2017年からはブランド「プラネタリウムアイランド」を確立し、伊豆諸島への観光誘客を推進している。離島観光を軸に、同社の歴史や、これまでの取り組みをまとめた。

 社史編纂室の早川佳男室長は、「東海汽船は創業以来、幾度もの危機を迎えてきた。しかし、伊豆諸島に住む人々の生活航路を守り続けてきたから、ここまで来ることができたのだと思っている」と会社の歴史を総括する。 

 東京湾汽船会社(現東海汽船)は1889年、渋沢栄一の発案により、当時東京湾内に乱立していた船会社のうち内国通運など4社が合併して誕生した。1891年、印鑑の材料になるツゲ材を輸送するために、東京府(現東京都)の要請で御蔵島への定期運航を開いたのが、同社の伊豆諸島航路の始まりとなる。

 1907年には、伊豆諸島の島民の生活を守るために東京府が出した要請を受命し、伊豆大島、利島、新島、神津島、三宅島、御蔵島への定期航路を開いた。

 会社設立以来、伊豆諸島への定期航路を守り続けてきた同社が、観光分野に進出するのは、28年から。きっかけになったのは、27年に発生した金融恐慌。同社の株を60%保有していた東京渡辺銀行が倒産し、創業以来最大の危機を迎えた。

 この危機を救ったのがが、貴族院議員の中島久万吉、郷誠之助と、彼らが主催するサロンに集まっていた若手実業家ら。このとき、社長として中島久万吉、常務として林甚之丞、彼らの多くが経営に参加した。

 林氏は会社発展のために大島や三崎、館山などの自社航路を視察。その過程で、伊豆大島に魅力を感じ、「東京府民のオアシスになる」と確信したという。

 そして林氏は、大資本家の根津嘉一郎に大島の魅力などを説き、彼からの融資を元手に観光分野に進出した。

 このとき伊豆大島には、自然公園や大島観光ホテル(58年から藤田観光が大島小涌園として運営)=写真=を建設したほか、島内の道路の舗装も実施しバス会社も作った。

大島観光ホテル玄関(提供:東海汽船)

 下田にも、静岡県や下田町からも整備費を負担してもらう形で港を整備し、下田で初めてとなる温泉をひいた観光ホテルを建設するなどし、多くの観光客を集めた。

 伊豆大島はその後、林氏と同じ思いを抱いた日産コンツェルンの鮎川義介によって、さらなる発展計画が構想された。鮎川の構想では、波浮港をクジラが泳ぐ水族館にし、島には保養所を建て、豪華客船を毎日運航する計画だったという。しかし、この計画は、太平洋戦争の影響で断念している。

 戦後も東海汽船は、65年に大島温泉ホテルを開業するなど、伊豆大島の観光と密接に関係しながら今日に至る。

 早川氏は会社の歴史を振り返ったうえで、「私たちが運航している航路は、台風などの自然災害に左右される。会社には、そういったリスクに関わらず、利益を上げられる事業を生み出してほしい」と将来の展望を語った。

プラネタリウムの島伊豆諸島の認知度拡大へ

 東海汽船では2017から、「プラネタリウムアイランド」というブランドをつくり、伊豆諸島への観光誘客をはかっている。旅客部門広報宣伝グループの上田直人氏は「星空は、伊豆諸島のすべての島で共通する自然素材。夏のシーズンは予約が埋まるほど多くの人に離島航路を利用いただいているが、冬の時期はそうならない。なので、星がきれいに見える冬の離島への観光客を増やすためにスタートした」と説明する。

 20年夏に就航する「3代目さるびあ丸」も、最上階のトップデッキの床を柔らかいゴムチップにし、デッキに横になりながら星空を眺められるようにする。船内にも、星空を想起させる仕掛けを施したい考えだ。

 同部門広報宣伝グループの太田理絵グループ長は、「生活航路を維持することは重要だが、離島への観光誘客も運航継続するうえでは重要」と強調する。そのうえで、「新造船の就航を契機に、離島の魅力発信を強化し、インバウンド需要の取り込みも進めたい。併せて東京湾納涼船の知名度も上げていきたい」と思いを語った。

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