2016年6月21日(火) 配信

高品質のおもてなしサービスを提供することで、お客様の強い支持を得て集客している宿の経営者と、工学博士で、サービス産業革新推進機構代表理事の内藤耕氏が、その理由を探っていく人気シリーズ「いい旅館にしよう!Ⅱ」の第4回は、佐賀県内で太良獄温泉「蟹御殿」と、奥武雄温泉「風の森」を経営する荒川信康氏が登場。2人専用の宿“ラブ旅館”という新しい価値をつくり出した荒川社長に、内藤氏は「新たな業態を切り開いてほしい」と期待する。
【増田 剛】
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荒川:私の父は佐賀県嬉野市で生まれ、呉服店の長男として家にお手伝いさんが2人いるような環境で育ちました。なのに、母とは駆け落ちのようなかたちで結婚し、唐津で暮らし始めました。両親はそこでレストランを営んでいましたが、私が小学校5年のとき、父は武雄温泉で「ラブホテル」を始めました。
私は唐津の中学、高校を卒業後、2年間、専門学校に通い、営業職として会社に就職しました。1年ほど経った1990年のある日、父から「旅館を経営することになった」と電話がかかってきました。
「どこで旅館をやるの?」と聞くと、「竹崎」というのです。唐津は佐賀県の北の方ですが、竹崎は南の方であまり行ったことのないところでした。次の週に見に行くと、鉄筋コンクリートの旅館がすでに建っていました。
これが今の「蟹御殿」で、翌91年7月7日に開業しました。バブル崩壊直後でした。負債は8億6千万円で、客室は15室。稼働率80%で見積っても、当時の金利9・8%で計算すると、とても返済できない数字でした。
私は開業日から3日間、会社を休んで手伝いましたが、「カニが冷たい」「お風呂がぬるい」「サービスが悪い」とお客様は怒りっぱなしで、私はひたすら謝り続けました。
あまりに不安になり、「もう会社に戻らなければならないけど、宿に入った方がよくないか」と聞くと、父は「大丈夫」と静かに答えました。
宿と父を心配しながら会社に戻りましたが、翌年の3月に父から「宿に入ってくれないか」と言われました。92年7月18日に私は宿に帰り、入社しました。23歳の誕生日でした。
内藤:宿に帰って来たときはどのような状態でしたか。
荒川:父は蟹御殿にずっといるわけではなく、週に1―2回しか来ていなかった状態で、宿を任せていた責任者がやりたい放題でした。また、若い私に対して仲居さんたちも「なにも仕事ができない」と囁き合っていました。
私自身は何とも思わなかったので淡々と仕事を続けていると、好き放題やっていた責任者は居づらくなったのか失踪しました。最初の5―6年は非常にきつくて、売上も下がり続けました。月の半分はゼロの状態もありました。
――そのときはどういうお客様が来られていたのですか。
荒川:カニ料理ということで、年配の方が中心でした。地域的には今でも福岡からのお客様が圧倒的に多く、次に長崎、佐賀、大分、熊本が7%ずつといった割合です。
JTBには点数が足らずに、プランの対象外でしたし、部屋数が少なかったので、他の旅行会社のプランにも入れづらい規模でした。
内藤:売上はどのくらいありましたか。
荒川:15部屋で3億円を超えていました。でも、売上の8割をバスツアーの団体客の昼食が占めていました。多いときは1日600人を受け入れていました。七転八倒していましたが、カニの原価が異常に高く、赤字状態でした。宿泊客はほとんどありませんでした。
こんな状態が5年ほど続きました。当時は120畳の大広間があり、長いテーブルと座布団を置いて4千、5千、7千、1万円のカニの昼食コースを提供していました。5千円と7千円コースが主力として一番売れ、全体の売上の8割を超えていました。
内藤:ほとんどドライブイン的な経営ですね。
そのころのサービスの品質はどのような感じでしたか。
荒川:すごく殺伐としていました。朝礼で「今日は400人入っている」と報告しても、捌くという感覚でした。いつも人が足りなくて、忙しかったですね。その代わり平日の夜はまったくお客様はいませんでした。
昼食が占める売上が8割あったのが、98年ごろから7割、6割と減っていき、売上の構成が変わっていきました。
内藤:宿泊が増えていったのですね。それは具体的になにか施策があったのですか。
荒川:開業から9年経った2000年に「有明海の湯」という周辺エリアにはない貸切湯をオープンしました。
当時じゃらんが出始めていたころでしたが、それまで告知をしてもほとんど反応がなかったのですが、貸切湯を2つ、内湯、ミストサウナ、露天風呂も作りました。お風呂が充実したことを売りにできるようになり、告知をするとじわじわと宿泊客が増えていきました。
一方、休憩・食事はずっと減っていきました。理由はカニ不足で質も落ちていき、竹崎全体が失墜していました。他館は主に食事に力を入れていましたが、宿泊を大事にしようと思っていたのは、当時はうちだけだったと思います。客室のクオリティーを大事にしようという意識も強かったと思います。
内藤:売上的には横ばいだったのが、昼食の団体客と宿泊客の構成比が変わっていったということですか。
荒川:そうですね。売上はオープンした翌年が約4億円でピークでしたが、98、99年ごろに2億9千万円で下げ止まりました。コストを一生懸命意識し始めて、ようやく利益が少し出るようになりました。そこから有明海の湯を作り3億円を超えていきました。
内藤:お風呂を作る資金はどうされたのですか。
荒川:国民生活金融公庫(国金)から9千万円を借り、なんとか貯めていた自己資金1千万円を使いました。銀行に借りていた8億6千万円の元金は10年経っても9千万円くらいしか返済していませんでした。
内藤:どうしてお風呂を作ろうと思われたのですか。
荒川:もともと7階に露天風呂がありました。近隣の宿泊施設にはなかったので強みでしたが、逆にいえば内風呂がなかったため、寒い日や雨の日にはお風呂に関するクレームが多く、お風呂が自慢なのに、お風呂で点数を落としていました。当時、スーパー銭湯という言葉が出始めたころで、一般の人と、宿泊客の両方に来てもらえるように、お客様の不満足を解消しながら、時流に乗りたいという気持ちでした。
内藤:宿泊客へのサービスはどのような感じでしたか。
荒川:清掃など、やらなければならないこともやってない状態でした。私自身「品質を上げるとはどういうことか」をしっかりと考え切れておらず、いつもスタッフに文句ばかりを言い、どうすれば良くなるか、という前向きな議論はまったくありませんでした。
内藤:悪循環に入ったわけですね。改善に向かうきっかけは何だったのですか。
荒川:2000年に知り合いからある勉強会を誘われました。そのとき、講師の方に「あなたのような経営者だと社員はかわいそう」と言われました。同時期に、お世話になっていた会社の社長に相談すると、「あなたがこのまま社長をしていると宿は潰れる。なぜならあなたは人を責めて文句ばかり言っている。そんな人に誰も付いてこない」と指摘され、かなり落ち込みました。結局誰が見ても駄目な経営者でした。
宿は土・日しか忙しくないのに日曜日にも勉強に行きました。その間にも汗をかいてお客様から叱られている社員がいることを思うと、帰りの車の中で涙が止まらなくて、自分は最低だなと思いました。
そこから社員に対する態度も私のなかで自然と変化していきました。気がついたら感謝の気持ちから「社員さん」「パートさん」と呼ぶようになっており、そのことによって一層大事に思う気持ちが強くなっていきました。そうすると“社員さん”の方も明らかに変わっていきました。
毎日苦虫を潰したような顔をしていたのですが、自分自身から変えていこうと、明朗快活でいつも笑顔であいさつすることから始めました。また、常に前向きな言葉を口にするように心がけました。これは今でも続けています。お客様が少しずつ増えていくと、私が喜び、前向きな言葉を口にすると、社員も喜ぶようになりました。「お客様から手紙をもらってうれしい」という社員がいれば、私も一緒に泣いて喜んだり、お叱りを受けたときには、一緒に謝ったりしながら、少しずつ一体感ができていきました。
そうすると、社員から「改装しませんか」などの提案も出てきました。「でも予算がないからみんなで一緒に作ろう」と言えば、クロス張りや、フックを付けたり、ペインティングなども社員が一体となってやりました。1階の露天風呂付き客室は全部自分たちで作りました。お風呂は造園会社に頼みましたが、板やデッキ、柱などは丸太を買ってきて、お金をかけずに作っていきました。すると、愛着も湧いてきて、お客様に一生懸命アピールするし、チラシなども作りました。
2000年という年は、本当に激動で、転機となった1年でした。1月2日に有明海の湯がオープンしました。結婚したのは2年前ですが夏に子供が生まれ、その直後に先輩経営者たちに厳しい言葉を言われ、考え方を変えた年でした。
内藤:その後はどのように変わっていったのですか。
荒川:会社の雰囲気も良くなり、01年の夏ごろから3カ月ほどかけて15室の客室の改装に着手し、当時黒川温泉などでブームになっていた和洋折衷の「古民家風客室」にしました。
内藤:実際、集客の状況はどうでしたか。
荒川:ずっと宿泊のお客様は増えていきました。02年には貸切湯がブームになっていたので、コンテナを脱衣所に使ったり、建築コストを抑え、1千万円ほどで6つの貸切湯を作りました。当時、海が見える貸切湯は少なく、平日でも3回転、週末は7回転など多くのお客様に利用していただきました。
04年に今のロビーを作りました。私はデザインが好きで、たまたまイタリアンレストランを経営していた建築士さんと話が合って、二人三脚で作りました。そして、05年に奥武雄温泉「風の森」がオープンしました。
内藤:蟹御殿の稼働率はどのように推移していったのですか。
荒川:オープンした91年の客室稼働率は30%前後で、その後2―3年は30%を切っていました。それくらいお昼の団体客に集中していました。2000年ごろに40%まで上がり、風の森がオープンした05年には50%を超えていたと思います。蟹御殿単体の売上は4億円ほどでした。
内藤:1泊2食の単価はどのくらいでしたか。
荒川:当初は1万5千円でスタートしましたが、売上が落ちた93―95年ごろは、基本料金は1泊2食1万円、また2時間程度の送迎付きで1泊3食8800円で受けていました。その後、有明海の湯を作ったことで1千円、2千円ずつ上げていきました。
内藤:そのくらいの稼働率、単価でやっていけたということはまだ昼食の団体客が多かったのですか。
荒川:05年時点でも売上の半分以上が昼食でしたが、徐々にクロスしていく感じでした。
内藤:改革のスピートと歩調を合わせて、お客の入れ替えがとても上手くいったのですね。
荒川:計算したつもりはまったくないのですが、いい感じで進んでいきました。有明海の湯を作ったころに、旅行会社との契約をやめました。旅行会社からの団体客がなくなったので売上は少し減少しました。やめた理由は誰のために仕事をしているのか分からなくなったからです。当時は大手旅行会社とのつきあいをやめることは珍しく随分驚かれました。
05年に風の森をオープンするわけですが、利益を出すには旅館は平日を埋められるかどうかがすべてだと思っていました。平日にお客様が来ると、まず社員の安定雇用ができます。優秀なパートさんが来てくれても、11―3月までは忙しいのですが、それ以外は雇えないので辞めてしまう。これを毎年繰り返していました。こんな不幸なことはないなと感じていました。仕方なく「人が足りないから」という理由で、土曜日だけに慣れないパートさんに来てもらいました。お客様へのサービスの劣化は進んでいるのに、週末料金ということで高く設定しており、この矛盾に苦しみました。
2000年から毎年5ポイントずつ2人のお客様が増えていました。「団体旅行が終わった」と、当時から言われていたので、「2人客が訪れたくなる宿」を作ろうという思いが、蟹御殿を経営しながらもあり、今の「風の森」のようなコンセプトを頭に描いていました。04年には蟹御殿にも少しずつお客様が増え、なんとか自己資金を3千万円貯めていました。当時私は常務でした。
しかし、ある日決算書を見たら、残り500万円になっていました。どうしたのだろうと思ったら、父がまたしても突然、何の相談もなく「山を買った」と言いました。現在「風の森」があるところに山の斜面6千坪弱を買って、造成までしていました。あきれ果ててしまいましたが、たびたび父からの催促もあり、新たな施設を作ることを決めました。それから半年くらいかけて中小企業金融公庫に通い、提案書や企画書を何回も提出しました。蟹御殿は1千万円ほどの利益が出るようになっていたので、1億円を貸してくれました。
内藤:蟹御殿のその後ですが、どの時期から一気に伸びていくようになったのですか。
荒川:05年に風の森をオープンして、08年秋の稼働率は65%程度だったのですが、3年後に80%にしようと大きな目標を掲げました。リーマン・ショックはまったく影響はありませんでした。
内藤:旅行会社とのつきあいをやめ、個人のお客に切り替えていたからですか。
荒川:そうだと思います。順調に伸びていきました。そのころからホームページのクオリティーを高めていきました。“綺麗に”ではなく、“集客できる”ホームページにするための勉強をしたり、じゃらんに掲載する写真も、どれが一番反応が高いかをデータを取って研究し、繰り返し実験をしました。戦術の部分ですが、キャッチコピーの勉強もしました。11年には稼働率は80%の大台に乗りました。
内藤:とはいっても、現場のサービス品質が上がっていなければ稼働率も上がっていきません。
荒川:01年ごろから毎月、社内で「社員さんと、パートさんの全員参加」で勉強会を開くようになりました。当時お金はありませんでしたが、時給をちゃんと払って、2時間程度研修を始めました。月に1回、私が学んできたものや、他の施設に行って気づいたこと、宿の理念も含めて「こういう宿にしていこう」「この場合は、こういったサービスをしていこう」など今でもずっと継続して行っています。
以前、断水があったとき、地元の人がお風呂に入れないため、有明海の湯に殺到しました。私は何も言わなかったのですが、社員の方から「地元の方々が断水で困っているので、特別な配慮をしませんか」と提案してくれました。
私がどういう思いで経営をしているか、どういう風にお客様に喜んでほしいと考えているか、という部分は1回や2回の話し合いでは伝わらないと思うのですが、根本の考えや姿勢を何度も、何度も事例を踏まえて継続して話し合っていたために、社員からそういう言葉が出てきたのだろうと思いました。
現場の判断基準としては、「お客様が喜ぶことが一番正しい」と決めています。もう一つ言っているのは、理念に基づいていれば、その時々の判断は「現場が正しい」ということです。今では現場がある程度の裁量を持って判断し、対応しています。これが少しずつでもサービスの質が上がっている理由ではないかと考えています。
12年の年間客室稼働率が86・5%でしたが、13年は96・0%まで上がりました。14年、15年は92・5%でした。最近も月によっては100%に近づいています。
内藤:では、「風の森」の話を聞きたいと思います。具体的にどのような宿にしたいと考えられていたのですか。
荒川:蟹御殿を経営しているなかで、「もっとお客様の顔が見えるサービスをしたい」という思いが強くなりました。寄り添うといえば大袈裟ですが、私自身がゆっくりできる離れの宿が好きなこともあり、誰とどこに行こうかと考えたときに、行く旅館があまりありませんでした。それだったら、「自分が行きたいと思う宿を作ると絶対に上手くいく」と確信していました。“山を買った”父から機会をもらってから、より具体的に考えるようになりました。必要とされているのに、無い商品を提供すればお客様が来るというのは道理です。「2人専用の旅館があれば行く?」と、色々な人に聞くと、ほぼ全員が「行く」と答えました。それで「大丈夫だろう」と、さらに確信を強めました。山の宿として、大きな開放感を与える基本デザインを考えました。
勉強会では、「市価の8掛け、相場の半額は絶対にお客様が来る」と言われていました。
それで風の森のオープン時にはさまざまなシミュレーションをし、提供できるサービスクオリティーの半額の料金、つまり1泊2食で約2万円に設定しました。投下資本利益率(ROI)は10年回収で頑張っていこうと思いました。
当時は、露天風呂付き離れは、九州全域で120室ほどしかありませんでした。その稼働率を定点観測していましたら、70%くらいでした。風の森は65%の稼働率で返済できる計算で、そんなに難しい数字ではないと思いました。
内藤:その後の数字はどのように推移していったのですか。
荒川:蟹御殿のオープンのときに、自分たちの対応能力を超えたお客様を受入れたために謝り続け、「最初に失敗したら、信頼回復に何年もかかる」ということを教訓にしました。
それで、05年6月30日に7部屋でオープンしましたが、7月はどんなに予約があっても1日1組しか受けませんでした。すべて断りました。8月に1日2組、9月に3組、10月に4組、11月に初めて週末に6組まで増やしていきました。06年の年間稼働率は90%となりました。
内藤:風の森は今でも同じような状態が続いているのですか。
荒川:5年目くらいからメディアの取材も落ち着き、毎年稼働率が約3%ずつ落ちていき、12年にはちょうど80%になりました。13年にこのままいくと80%を切ると思い、夏にバーを作りました。そこからまた少し伸びていきました。それまでやっていなかったネット予約も始め、翌14年には再び90%に回復しました。
私は憶病な面があって、幾つか回復する“隠し玉”を持つようにしています。80%を切る時点になったときに、ネット予約と、バーの新設に着手し、社員と話していた「2年で90%に戻す」という目標をクリアしました。
ネット予約を始め、じゃらんや、楽天ではなく、一休プラスに入りました。これは九州に2軒しか掲載されてなく、多くのお客様から予約をいただいています。14年は新規のお客様ばかりでしたが、今はリピーターのお客様も半分ほどを占めています。
内藤:リピーターの商圏はどのくらいの範囲ですか。
荒川:圧倒的に福岡市が多く、北九州や、長崎、熊本からも多く来られています。
今年新たに4部屋をオープンさせ、計11室にします。本当は蟹御殿に8部屋を増やす予定でした。理由は昼食をやめて、社員も働く時間を短くしたかったのですが、今も年間6500万円の売上があり、利益もでているので、まだ完全にやめる段階にはいっていません。
昼食をやめた場合、蟹御殿で粗利を稼ぐ何か別のものを作りたいと思っていたのですが、カニというのは天然資源なので私たちだけでコントロールすることが難しく、リスクも高いので風の森を先に着手しました。
内藤:風の森全体の投資額はどのくらいでしたか。
荒川:1億6千万円です。そのあとに、ラウンジで約2千万円投資し、おおよそ7年で償還しました。
内藤:銀行側からすれば最も理想的なかたちですね。
荒川:今度の部屋も、稼働率は80%で計算しが、ROIは7年償還で計算しています。
内藤:スタッフは増やされるのですか。
荒川:現在14人いますが、2人増やす予定にしています。ただ、売上では約1・7倍になると想定しており、収益は蟹御殿よりも圧倒的に大きくなると思います。
内藤:今後の経営者としての事業展開は。
荒川:私はリゾート旅館が好きで、それを作っていけたらなと思っています。
内藤:リゾートとは何なのでしょうね。
荒川:私もずっと考えているのですが、答えがでません。ただ、頭を空にできる場所だと思います。色々な、邪魔なノイズがなくなる場所。バリにも、モルディブにも行きましたが、海を眺めていると、1時間もすると日常生活のすべてを忘れてしまっているのです。
内藤:私も頭の中のノイズがどんどん消えていく感覚が好きで、それは海、川、山であっても、その雰囲気を作り出せる視覚、空気、香り、食べ物などが積み重なっていき、ノイズが消えていくのを感じます。ノイズが消えていったあとに、次に出てくるものは、仕事の活力ではないですか?
荒川:おっしゃるとおりです。
私は商売が好きで、この先もずっと商売をしたいと思っています。商売人として、まだ誰も考えていない独特なことをやっていきたいという気持ちはあります。
内藤:一つの業態を切り開くのは、私は商売人だと思っています。「あきんど」です。宿泊業も湯宿は1千年以上続いています。商人宿も数百年続き、それが現在ビジネスホテルになっていますが、現在の旅館の業態は意外に新しくて、高度経済成長期にビジネスモデルが完成したと思っています。「我われこそ伝統産業」という人もいますが、基本的にまだ新興産業なのです。もしかしたら今の旅館の延長の外に、かたちを変えた新しい旅館の姿があるのかもしれません。
荒川:今でもお客様の無意識のレベルで求めているものがあるはずです。私は「低価格」というのは一つのキーワードだと思っています。低価格と言っても1万円を切るとかの話しではなく、蟹御殿のような1万5千―6千円クラスの旅館は一時期一番ボリュームが大きかったのですが、高価格か低価格に振れて、今はここが一番空いているなと思っています。この価格帯を2万5千円くらいの品質レベルを提供できると、隠れている最大のニーズを攻めることができると思っています。風の森のようなスタイルを30室規模にして、1万5千―6千円に設定すると大きなニーズの受け皿になるのではないかと考えています。
内藤:もう一つ、多様性というキーワードがものすごく大事だと思います。つまり選択肢の拡大です。
私は100年前にあった産業は100年後もあると考えます。今は隆盛しているIT企業も100年後にあるかはわからない。しかし、宿泊業は絶対にあるはずです。
荒川:旅は抑えきれない衝動、本能だと思います。リゾートは本能を開放しやすい場所なのではないかと思います。だから世界中の人々が向かって行くのだと思います。
自分で勝手に作った言葉ですが、「ラブ旅館」という定義です。風の森を作るときに、当時キングベッドしか置いていない旅館があるかどうか調べましたが、2人専用という旅館もなかった。そのときに新しい価値を作っていきたいという強い思いが生まれました。
内藤:荒川さんはこの「ラブ旅館」という業態をやるべきです。
人間は、人の前を歩く人と、人の後をついて歩く人の2種類しかいない。ほとんどは、真似しながら人の後を歩く人です。このような議論をしても「他はどうなの?」「事例は?」と聞きます。でも、新しい業態を切り開ける人は、そうはいません。21世紀の旅館のあり方といった議論も誰かがしなければならないと思っています。そうでなければ廃れるだけです。
その部分でも、荒川さんには頑張っていただきたいと思っています。
※ 詳細は本紙1632号または6月27日以降日経テレコン21でお読みいただけます。