2012年4月21日(木) 配信

高品質のおもてなしサービスを提供することで、お客様の強い支持を得て集客している旅館がある。従業員の職場環境を整え、お客様と真摯に向かい合える仕組みができているのが特徴だ。「いい旅館にしよう!」プロジェクトのシリーズ第2弾は、福島県会津東山温泉で、木造建築が国の文化財にも登録されている「向瀧」の平田裕一社長と、産業技術総合研究所の工学博士・内藤耕氏が「労働時間の有効活用」や、向瀧が実践する「建物を磨くことによって、技を磨く、己を磨く」文化の大切さについて語り合った。
【増田 剛】
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平田:当館は江戸時代中期から、会津藩指定の保養所でした。会津藩から明治6年に平田家に委ねられて営業を始めて以来139年で、私は6代目になります。建物は江戸の終わりから明治の初めに建てたものを加えていき、今の姿になったのは昭和の初期。この80年間はほとんど変わっていません。現在、部屋数は24室です。
1991年に東京の旅行会社から会津に戻った私は、まず番頭からスタートしました。当時は「新しい」ことが魅力であり、鉄筋コンクリートで大型化した旅館を見て羨ましく思ったこともありました。今でも夕食、朝食ともにお部屋出しをしているのが特徴ですが、当時はいくつかの部屋を潰して食事処を作ろうと考えたこともありました。もし、そうしていたら、向瀧の独自性が減っていたと思います。
――代が変わって、とくにどの部分を改革しようと思われたのですか。
平田:代替わりは02年ですが、施設を変えることはしておりません。ソフトをどう変えられるのかという部分を考えていました。お客様から聞こえてくる声としては、食事の内容についてが多かった。だから、まずは調理場部門から改革していきました。当時は山の宿でありながら、エビやマグロを出していましたが、それらをすべてやめて、お造りを出すにしてもコイやヤマメやイワナといった山国の素材を集めて加工する方針に変えました。
調理場が総上がりした時期には、私が自ら包丁を持って料理を出しました。今でも手が足りなくなると、包丁を持って調理します。そうすると、バックヤードから見た旅館の働きやすい環境というものも見えてきて、改善のアイデアが浮かんできます。
――経営者が厨房に入って包丁を持つことは大事なことですか。
平田:視点が違ってきますね。たとえば、食材を保管するタッパーは、買い足しにより多種類のサイズが氾濫して、蓋を探すのに時間がかかっていました。従業員は会社が購入した箱なので、なかなか捨てることができません。「捨てる」とか、「やめる」という判断を下す経営者が整理して捨てると、作業効率も格段に上がります。無駄が削れ、簡素化ができるのです。
内藤:「山奥でマグロの刺身はおかしい」という論理もあれば、一方で「マグロやエビはないのか?」というお客の声があるのも事実。お客も旅行は「ハレ」の日で、ハレの日と言えばお刺身という気持もある。たぶん両方の言い分は正しいのだと思う。だけど「小さな自分の旅館で、お客様のすべてのニーズに答えるのですか?」ということになる。逆の言い方をすると、マグロやエビを出すことによって、山の幸を食べたいと思っているお客様をすべて捨てることになる。あまり考えることなく、なんとなくこれまで通りにやっているのが今日の旅館の大きな問題だと思います。
平田:向瀧としては、個人で木造建築を静かに楽しんでもらえる人に使ってほしいという方向性が見えてきました。その方たちが会津に来ていただいたときに、会津の特徴的な料理が並ばないと納得してもらえないだろうと思い、すべて会津食に変えました。最初変えたばかりのころは地元の方々に「ぜんぜん食べるものがない」と批判されました。途中で食べるのをやめて、川向うのラーメン屋に行かれたこともありました。でも、いずれ自分の決断を支持してくれるお客様が来てくれると信じていました。地元の人だって、本当はなかなか地元の料理を食べていないものです。
内藤:メニューの種類が増えると、厨房の作業の種類が多くなる。そうすると、同じ食材でも使われる確率が低くなり、在庫期間は長くなる。その分品質は下がっていく。バックヤードの作業の煩雑さが、結果的に品質低下を招いてしまう。数を増やそうとした戦略が、品質ダウンによって、却ってお客様の数をさらに減らすという悪循環に入ってしまうのです。むしろ絞って品質を上げていくことで、お客様を増やしていくということを、辛くてもやらなくてはならないと思う。
――これまでの無駄を省いた例はどのようなものがありますか。
平田:仕入業者の選定によって、農家の方々が直接出入りしたりするようになりました。地元料理に変える際に、お米も醤油も品質を上げ、費用が2倍、3倍となりましたが、海の魚など余計なものを買わなくなったので、結果的に仕入コストは劇的に下がりました。
内藤:つまり、無駄を削減したことで、お米や醤油の品質を格段に上げることが可能になったのですね。
平田:そうです。当館はお客様が到着されると、抹茶と羊羹をお出しするのですが、以前は業者から納入し、帰りにお土産で買っていただけるものを出していました。しかし、料理を完全に手作りにしているなかで、手作りではない既製品が一つでもあると、「これも既製品かな?」とお客様に思われてしまうので、調理場は既製品を出すことを嫌がったのです。調理場と客室と帳場の係から「社長、手作り羊羹に変えましょう」と言われ、板長手作りの羊羹を出しています。
内藤:手作りだと、素材だけなので、納入コストも下がる。また、作る作業も空いた時間にやるので、人件費を増やさないで、仕入原価を減らし、品質と顧客満足度も上がったのですね。
平田:「この羊羹を買って帰れないの?」とお客様によく聞かれますが、そのときはこれまで納入していた羊羹屋さんを紹介します。「私たちの羊羹はお持ち帰りはできませんが、会津の美味しい羊羹屋さんの水羊羹がいいですよ」と薦めることによって、地域活性化にもつながるのです。
内藤:手作りで手間をかけるといっても、手間を増やしていないんですね。時間の有効活用。これまでは予算の有効活用で、アウトソーシングして手待ちの時間ばかりが増えていた。勤務時間の8時間を有効活用した良い例だと思います。
平田:スタッフ全員の意識がお客様のために何ができるか、ということに頭が向いているので、手作りができているのだと思います。これが「どうやってお金儲けしようか」ということばかり考えると、お客様に翌朝お菓子を売らなければならないから、到着したらこのお菓子を出しちゃおう、ということになる。そういう姿勢が見えた瞬間に、お客様の心は引いてしまうんです。
内藤:向瀧は建物を磨いているのも大きな特徴ですね。
平田:掃除は外注しないんですよ。全部自分たちで館内を磨きますから、弱っているところに気が付くんです。雪が積もって襖が開きづらくなっているところも気が付く。私はこれを「聞こえない悲鳴を聞く」と言っています。
お客様も「少し寒い」など言いたいことが言えない状況でも、顔の表情や目線などに出てきます。「お客様の聞こえない悲鳴」にも気づき、自分から一歩近づいて対応することができるようになります。お客様に一歩近づくことによって、「自分の調理の技術、接客の技術はこれでいいのか」と省みて、自分の技の向上が必要になってきます。「建物を磨き、技を磨き、己を磨く」という磨きの文化を実践しているのです。建物を磨くところから、聞こえないものが聞こえ、見えないものが見える人間に成長していくのです。
もし、清掃を外注に任せてしまうと、客室で不具合が生じた場合に、清掃業者のせいにして自分には責任のない態度がお客様に伝わってしまう。
日本人というのは、そもそも物を大切にして磨くことが得意だったはずなんです。しかし、今は捨てる文化が主流になっています。宿や、会津の心を守るために、私たちが実践しなければならないのは、磨いて輝かせることなんです。掃除とは違うんです。掃除は汚れてマイナス状態になったものを元に戻すこと。磨きは汚れる前に気が付いて、買ったときよりもさらに輝かせること。これからも伝えていかなくてはならない文化だと思います。
内藤:施設を磨くということは、基本的にお客様がいないときにやるわけですから、これによって施設がちゃんとした状態になると、お客様がいるときに施設に関するトラブルがなくなる。裏を返すと、スタッフはお客様との接客に集中することができるようになるというメリットがある。
たとえば、お客様がいるときに客室の電球が切れると大騒ぎになるが、それをいかに事前に予防するか。ある旅館は、電球をいつ交換したかすべて記録していて、耐用年数期間が近づくと、事務所の電球と交換する。そうすると、事務所の電球はしょっちゅう切れるが、客室の電球が切れてクレームが起こり、慌てて交換に行くということはない。例外処理がなくなることで、お客様に全神経を集中して接客することができるのです。
平田:お客様と接する自分をサポートするために、お客様のいないときに緻密に準備をすることが大切です。
内藤:これまでの付加価値を労働時間で割る労働生産性という考え方では、労働時間を減らした方がいい。アウトソーシングをすると、見かけ上は労働時間ではないので、生産性が上がったような気分になる。しかし、管理費は上がっているので結局変わらないのですね。むしろ、「自分たちでやっていく」という決意があれば、責任を持てるし、品質も上げられる。労働時間の有効活用という考えが重要だと思います。さっきの話でも、羊羹を買ったほうが作業量が減るが、その分厨房で何もしない待機時間が増えるだけで、二重にコストがかかることになる。
平田:方程式を間違えてしまうと、手を抜くほうが素晴らしいということになってしまう。
――今後の宿についての考え方は。
平田:お客様の声は、「変えないで」という声が非常に多いので、見た目の風情を絶対に変えないで、生活レベルに近づけることが大切だと思っています。向瀧の客室はすべて無線でインターネットができます。05年には空調設備もすべて替え、機械が見えないように床下や天井裏に隠しています。その分費用は高くなりました。特別室浴室の屋根を補修した時も、瓦を1枚ずつはがして小屋組を交換し、また瓦を元通りにしました。今の姿を壊さずに100年、200年後でも同じ姿を保っているというのが我われに求められていることだと思います。