2013年7月1日(月) 配信

高品質のおもてなしサービスを提供することで、お客様の強い支持を得て集客している旅館がある。なぜ支持されるのか、その理由を探っていく「いい旅館にしよう!」プロジェクトのシリーズ第13弾は、茨城県・大洗町で「あたらしいふるさと」をコンセプトに、保養を目的とした宿「里海邸 大洗金波楼本邸」の主人・石井盛志氏が登場。工学博士で、サービス産業革新推進機構代表理事の内藤耕氏との対談で、「本当にくつろげる宿」について語り合った。
【増田 剛】
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内藤:里海邸はもともと保養所からのスタートですよね。
石井:里海邸の前身の金波楼ができたのは、1888(明治21)年のころです。明治の文明開化後期に海水浴ブームが起きて、茨城にも海水浴場を作ろうという動きがありました。当時の海水浴場は「潮湯治」というもので、体に良い刺激を与えるために波の荒いところを選定して、医師もビーチにいて予防医学的な活動を行ったのです。文献によると、当時は「海水浴客」ではなく、「患者さん」という呼び方をしていたみたいですね。それが次第に現代のようなレジャーに変わっていきました。
海水や海の気候に囲まれた環境の中で運動などをしながら、ゆっくりと静養して体をメンテナンスしていく施設として金波楼は誕生したのです。
この大洗も経済の成長と歩調を合わせて、次第に男性客中心の歓楽型の宿に変貌を遂げていきましたが、バブル経済が崩壊すると、大型団体の需要がなくなりました。
私自身もどちらかといえば宴会客を受けるのが苦手で、この土地に合った海の持っている癒しの力で「本当にくつろげる宿を作りたい」と思いました。そして、過去とのつながりを意識しながら、120年前に創業した宿の原点に戻ろうと、2年前に全8室の宿にリニューアルしました。しかし、ただ単に創業時に戻すということではなく、今の時代に合った保養や癒しのかたちで、お客様が日々感じているストレスにも対応できる設備のあり方や、環境の取り込み方、快適性などを考えながら、少しずつ丁寧に積み上げてきました。テンションを上げる場所ではなく、むしろ別荘のように「心を鎮める場所」としての方向に向かっています。観光旅館ではなく保養のための宿ですね。
内藤:そういう意味では、豪華な料理を出すとか、何かお客様の気持ちが盛り上がるように持っていくというのとはまったく逆の考え方ですね。
石井:たとえば医師のように日々非常に忙しい方が1人で訪れ、「やっと自分の時間ができた」と、ゆっくりと海を見詰めたり、海辺を散歩したり、静かに読書や音楽を聴いたりして過ごし、リラックスして帰られる方が多いですね。食事も派手ではないですが、素材の良いものを洗練させてシンプルに提供しています。
私たちは「あたらしいふるさと」と呼んでいますが、「ここに居心地の良い場所を一つ作ります」というのが宿のコンセプトです。つまり、「家」なのです。
茨城県は、観光魅力ランキングでは全国で最下位に近いですが、「移住したいランキング」では結構高いのです。東京とのつながりを保ちながら、現実的に暮らせそうというイメージがあるのでしょう。首都圏の方々には「近距離で、ゆっくりとしたいニーズが結構あるのだな」と思いました。でも実際に別荘を建てるとなるとお金もかかるし、近所付き合いなども大変です。憧れと現実の落差は結構あります。だったら煩わしい部分をすべて引き受ける宿を作ろうと思いました。そこで「別荘宿」の考え方に辿り着いたのです。この考えにぴったりとはまったお客様は年に5―6回という頻度でリピートしていただいています。
スタッフも価値観を共感していただける方が働いています。スタッフにとってやりがいのある職場でありたいと常に思っています。組織の動き方は、まだ完全ではないですが、ほぼサッカーチーム型です。一応、「こういう風にゲームするぞ」という共通認識のもと、お客様が訪れると、連絡を取り合いながらいい仕事をするために組織的に動きます。うちのスタッフは館内をよく歩き回っています。接客の技術は、基本的な情報伝達などの徹底はやりますが、個々のキャラクターにある程度は任せています。
内藤:落ち着かせるための設計にも、宿主の考え方が細部に現れています。
石井:人間は、洞穴のような安全なところにいて、外敵や自然を見ているのが心理的に落ち着く性質を持っています。このため、客室には奥行きを持たせて、一番奥に安らぐ空間を作りました。お客様は海に面したところに行ったり、奥の空間で安らいだり、客室の中で何度も移動を繰り返します。宿側の都合によってお客様を動かすようなことはせず、個々の心身のコンディションで、自由に動けるようにしようというのが基本的な考え方です。
海や川、滝といった自然は頭の中のざわめきを消してくれるので落ち着きます。しかし、同時に人間は自然の中では非常に緊張しているのです。「癒しを求めて来られるお客様に対してどうすればよいか」を一番に考えました。
内藤:おっしゃるように、ベッドは客室の一番奥にありますね。
石井:私は海側にベッドを置くのは良いとは思わないのです。実はこの建物も以前は海側にベッドを置いていたのですが、最初は波音が聴こえ、頭がすっきりして気持ちいいのですが、さあ安心感を持ってゆっくりしようと思うと、今度は波の音が不安で眠れなくなってしまうという意見が多かったのです。
私たちの宿では3ゾーンのレイアウトにして、最も非日常的な部分にテラスを付けて、一番静かなところに寝室を作り、その間にリビングルームを配しました。また、木の温もりなどによって普段の住宅とかけ離れたものではない感覚を大切にしました。
私の経験から、旅館に泊まって朝早く目が覚めたときに、周りが寝ていると居場所がない。また、夜遅くまで起きていたいと思っても周りの人が寝始めたら寝るしかない。このため、里海邸では客室の中を3つ以上にきちっと区切り、完全に寝る場所、コミュニケーションを取ったり、くつろぐ場所、そして、非日常的な空気にどっぷりと浸かれる場所の3つの空間を作りました。部屋の中を移動しながらお客様が最も心地よい場所を見つけることが一番負担の少ない過ごし方だと思います。
露天風呂付き客室というのも人気が出ましたが、冬は寒いですよね。コンコンとお風呂が湧いているのなら別ですが、窓がないお風呂は、とくに年配の方は辛いと思います。私は冬にもお客様に来てほしいと考えていますので、浴室には窓を付けています。浴室の作りはシンプルな石の風呂と、木の風呂だけです。洗い場には鏡もありません。何もない分、前面に広がる自然の海のエネルギーをしっかりと受け取って、「頭の中を空っぽにしてほしい」との思いから基本的には何にもないお風呂にしました。入浴後には、木の素材をたっぷりと使ったイスに腰掛けて、少しお酒を飲んでアンビエントミュージックなどを聴いていると眠くなってきます。そして「こんなに自分は疲れていたんだ……」と強く実感されるのです。日ごろは緊張しているので自分の疲れを実感できないのですが、何か大きな仕事が終わったときに体に大きな疲れがドーンと出ますが、あれと同じような働きが起きるのです。
内藤:お風呂に鏡を付けていないのはどうしてなのですか。
石井:海に近い野趣な環境のなかで、自然と一体となって体を浄化していく作業を、最大限に効果を高めるために配慮しました。ひげも剃れなくて不便なのですが、鏡がないことで苦情を言われたことはないですね。
内藤:鏡があると現実に戻されてしまうからですか。
石井:そうですね。自然を受け入れるという流れを大切にしています。
それと、里海邸では宿を家のように感じていただくために、玄関の表札は小さくしています。初めて訪れるお客様は気づかれず、よく通り過ぎて行かれます。館内には一切、どこに何があるというサインがありません。商業施設ではなく、自宅にいるような気持ちになれるように、エレベーターの中にも何も書いていません。スタッフが客室に入るときにはチャイムを鳴らします。しっかりと説明はしていますが、お風呂がどこか分からなくてときどき聞かれることがありますが、お客様とスタッフとの会話のきっかけになればいいと思っています。「付かず離れずの関係」とお客様に褒められたこともありますが、実はお客様がスタッフに聞かざるを得ない状況をあえて作っています。これが付かず離れずに見えるのでしょう。お客様が困ったようすにあれば、こちらからお声をお掛けします。
館内は木の素材を多く取り入れています。今の社会は視覚に訴えるもので多く構成されていますので、目と頭がやたら疲れていると思うのですが、ここでは、肌に触れる「温もり」を大切にしています。自然素材の木に触れる足裏もそうですが、机やイスにもわざわざアームを付けており、肌と自然素材との触れ合いによって、日ごろ感じている緊張感を和らげていただきたいと思っています。
私たちは、大人が子供の心に戻るような宿を作りたいという思いがあります。大人は重い物を背負ったり、鎧を着ていたりします。時間も、急かされるように過ぎていきます。だけど、子供のころは時間が無限に長く感じられましたし、ゆっくり流れていきました。あの時間の感覚をどうやって作れるのだろうと考えました。そのためには海という環境の力を借りて、一度頭の中を空っぽにしてもらう。その後どうするかというのが我われの宿の仕事です。ゆっくりと時間を感じていただくために、たとえば、ラウンジのソファなどの家具は包むように作られています。家具作家にお願いしたのは「木に抱っこされるようなイスを作ってほしい」というようなことです。
子供のころには自分を見守ってくれる親や大人たちがいて、その安心感こそがゆったりとした時間を感じさせる要因だったりしますが、大人になると全部自分でやらなければならない。でも、ここでは子供に戻ったように宿のスタッフが世話をしてくれるのです。実家に帰るというのは、親がいて少し甘えることができる心地よさがありますが、そういう安心感を建物としても工夫しています。ラウンジのテーブルは少し高めにしています。子供のころは、家具は大人用に設計されているのですべて大きく感じます。ここでは大人でも少し大きいなと感じられるように仕掛けをしています。こちらから説明はしませんが、とくに女性は「ゆったりして心地いい」という印象を持たれるのではないでしょうか。
お客様はたっぷりある時間の中で本を読んだり、映画を観たり、海でただ風に吹かれていたり自由に過ごされますが、私たちは寝る空間以外にリビングルームを必ず作っていますので、会話の機会が少ないご夫婦が、そこでゆっくりとお話をされたり、普段の生活の中では話せなかったことや心に引っかかっていたものを解決できるようにしているんです。チェックアウト時間は正午まで提供しています。朝食もゆっくり食べていただくというのが前提になっていますので、9時過ぎから食事をされる方もいらっしゃいます。
茨城で3万円の宿として始めたので不安もあったのですが、お客様は私たちのコンセプトをほぼ理解していただいています。豪華な牛肉や伊勢エビも出さないので、最初は色々と言われたこともありましたが、今は、むしろ料理のボリュームが多すぎると言われ、どんどん量も抑えています。
私たちが提案しているのは、「こんな暮らしがしたい」というライフスタイルなのです。なかなかゴールがあるわけではないのですが、この時代の中で社会的な役割を少しでも果たせていけたらと思っています。
内藤:料理長とはどのような議論をされているのですか。
石井:「土地柄に合った料理を作らなければならない」ということですね。大洗の土地で京風懐石を出す必要はありません。それは京都に行ったときの楽しみですから、京都で食べればいいのです。では、茨城ではどのような食文化があるかと調べてみると、そんなに特別な料理を作っている食文化はない。それは茨城が産地県だからなのです。新鮮なものが手に入るので、そのまま食べるのが一番美味しいという意見が多いのです。地産地消は食材の購入にばらつきがあるため、メニューを固定すると達成が難しい。ですから里海邸では「メニューは基本的に宿にお任せ下さい」としています。その分、その日の新鮮な魚や野菜を用意できます。高級な食材よりも、地元の食材で丁寧に作ることを評価していただければいいと考えています。厨房のすぐ横にある海を望む食事処で、焼き魚や肉もお客様に提供するぎりぎり直前に調理しています。
館内ではすべてにおいてテンションを上げないように配慮しているので、ゆっくりお風呂に入った後、懐石料理などを出すと急にチャンネルを変えられたような違和感が出てしまうので、落ち着いた食事が食べられるように気を配っています。ただ、退屈な時間にならないように素敵な器を使ったり、知的好奇心をある程度刺激する工夫も施しています。このように里海邸では、淡々と時間を流していくのです。
内藤:新しいメニューを考える際にこだわるポイントはどこですか。
石井:料理長がとくにこだわっているのは、食感を際立たせることです。一見素朴な家庭料理でありながら食べると、お客様が「あっ」と驚くポイントを、味付けや食感などで幾つか用意しています。たとえば「ゴボウってこんなに美味かったのか」と思わせるために、味を整えたり、食感を殺さずに調理をしていく過程に心血を注いでいます。
内藤:食材の持っている元の味を出すには食感があった方がいいということですか。
石井:そうですね。食材そのものの味、よく滋味などと言いますが、これらを引き出すには料理をしすぎないことです。実際はすごく手を入れているのだけれども、でき上がったものは食材で持っている性格を失わずに食べやすく提供する。これを考えるのが料理長の仕事です。素朴な料理を心地よく食を進めていくために、シャキシャキとする食感と対になるものを加えていったり、一見地味な料理でも、食欲を昂進していくように仕掛けていくことは常に意識しています。産地県ですから、野暮ったくならないセンスをいつも気にかけています。
音楽にたとえると、何度も聴いているうちに「この部分を心地よく感じていたんだな」と気づく旋律があって、そういうものを潜ませたいという気持ちはあります。技術を細部に潜ませているのが料理長のこだわりだと思います。
内藤:宿泊客の年齢層は高めですか。
石井:セカンドライフ層を狙っていたので、基本的に高齢者がターゲットです。経営的にも平日の稼働率を上げなくてはならないので、シニアの方ですね。遠くの旅行に行くのに疲れた高齢者の方もいらっしゃいます。
内藤:多くの旅館はインパクトを出すとか、料理を豪華にするということで集客する手法を取ってきましたが、若い世代は最初はこの宿の魅力を理解できないのではないでしょうか。そして、あえてそのようにしているのではないかという印象を受けました。
また、これまでは若い女性をターゲットにしたマーケティングは何度も言われてきましたが、私はむしろ50―60代の男性を意識したサービスに大きなマーケットがあるのではないかと思っています。
石井:おっしゃるように、確実にあると思います。一方で、ターゲットはもっと上なのですが、若い30代の現役バリバリのビジネスマンが忙しさを解消するために、クタクタになって来られるケースもみられます。
内藤:多くの旅館は目先のお客を得るために特色を出そうとしますが、里海邸は徐々にお客を獲得し、リピーターによる高稼働の状態を数年かけて作り上げていくスタイルで、さまざまな工夫をされていますね。
石井:年に何度も来られるお客様がいらっしゃいますので、演出性を持って迎えるのは止めて、「その日その日のベストな仕事を普通にやる『ノンフィクションでいこう』」という姿勢です。その部分で共感していただける方と付き合っていこうと思っています。
内藤:大型鉄筋、部屋食、懐石料理、女将、着物という旅館のイメージはそんなに古いわけではなく高度成長期以降のことです。その前は民宿、湯治場などが主流で、バブル前後に大型化したわけです。旅館業界は短期間にものすごく大きく変化してきました。これまで大部分を占めていた宴会などによる収益構造が今後も安定的な経営のコアとして続くことはないだろうと皆が気が付いています。今主流になっているものが今後も主流であり続けることはとても難しい。これから10―20年はどのような宿が支持されるのか、今はその大きな転換期のような気がします。
石井:新しい潮流といえば、大袈裟かもしれませんが、そのようなものを作っていきたいとは考えています。今は黎明期なのでしょうけど、それぞれの宿が各地で地域のローカリティーを追求しています。「田舎」というと、地域があって、その中に宿があるというイメージですが、それはあまりに壮大な話ですので、「宿に入ったら地域が広がっていく」方向に進めていきたいと思います。里海邸も都市との関係性や、心理的な距離感なども含めてこの地域らしさなどを追求しています。
※ 詳細は本紙1507号または7月5日以降日経テレコン21でお読みいただけます。
