test

宿や街のデザイン ― つくり過ぎず、どこか懐かしい

2014年2月1日
編集部

 オートバイにはさまざまな呼び名がある。オートバイと呼ぶ人もいれば、バイクと呼ぶ人もいる。でも、私が好きな呼び名は「単車」である。まったく個人的な印象だが、バイクという呼び方は、語感的にファッション性を含んだ少しお洒落な感じがする。オートバイはもう少し“野性的なイメージ”を連想させる。そして、「単車」はチャラチャラした装飾的なものを一切排除した、無骨に鈍く光る、黒い鉄の塊りが思い浮かぶ。

 私が生まれた街は、九州の小さな海辺の工業地帯。幼い私はセメント工場で働く母方の祖父の黒い単車に乗るのが好きだった。鉄パイプがむき出しになった埃舞う工場群や、工業用のダムに単車で連れて行ってもらった。父の単車にもよく乗せてもらい、海岸線を走った記憶がある。高校生になった私は父に黒い単車を買ってもらい、山の上の高校まで単車で通った。

 祖父や父はオートバイを「単車」と呼んだ。華美さの欠片もない北九州に生まれ育った男たちの「単車」という呼び方は、妙にしっくりくるのだ。このような経験があるからか、ときどき「単車」が無性に欲しくなるときがある。

 クルマやオートバイを選ぶ際、デザインは重要な要素である。そしてデザインを目にするとき、人は各々が経験してきた過去の記憶と無関係ではない。

 モーターショーに出展される「コンセプトカー」は、未来だけを見据え、実験的に機能やデザインが作られているので、どこか地に足が付いていない印象を受けるし、そのまま街を走ったら目立つだろうが、現実感がなく存在が浮いてしまう。

 過去を切り捨てた極端な未来的なデザインは、記憶の切断であり、目新しくはあるが、その代償として空虚さが生まれる。そして未来的なデザインは、基本的に流線形であり、フェイスの尖り具合など、どこか杓子定規的であり、多様性よりも、同質的な匂いが強いのである。私が思う優れたデザインは、曲線や直線の中に言葉では説明できない、少し感傷的な、懐古的な幸せな記憶が隠されている。ほどよいセンチメンタリズムの母体に包まれながら、近未来の“謎に満ちた”未知なる世界に突き進むスリル感に、少なくともオトコたちは、胸を躍らせ、のめり込んでいくのだ。

 都市もそうである。レトロ感にあふれるパリの街並みは、完成された華やかな芸術作品のように美しいが、しばらくそこにいると、私なぞは少し息苦しさを感じる。抑制美が効いたロンドンやニューヨークの方が落ち着く。懐古調と未来志向の調和によって心地よい気分になるのだ。

 一方、ガラス張りの高層ビルが歴史のない場所に忽然と現れた未来志向の街並みは、少し歩くと疲れて飽きてしまう。

 旅館も、さまざまなコンセプトを前面に出すのはいいのだが、「つくり過ぎる」と逆に落ち着かない。「もう少しデザインが抑制されていればいいのに」と思うことがある。有名建築家や、流行りの建築デザイナーが手掛けると、自己主張を垣間見せ、それが少し鼻に突く。宮大工のように、いい仕事をしながら、妙な個性を主張したりしない職人が作る世界の方が好きだ。新しいのにどこか懐かしい。そして、つくり過ぎず、抑制の効いた街並みや宿が、多くの人々を永続的に魅了するのだろう。

(編集長・増田 剛)

いいね・フォローして最新記事をチェック

PAGE
TOP

旅行新聞ホームページ掲載の記事・写真などのコンテンツ、出版物等の著作物の無断転載を禁じます。