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災害ボランティア 今も継続

2013年9月21日
編集部

石塚サン・トラベル社長 綿引 薫氏

6才から80代まで延べ1万7千人参加、人の力ってすごい

 2011年3月11日に発生した東日本大震災から2年6カ月が過ぎた。今回の震災で注目を集めたのが全国各地から集まった老若男女を問わない“災害ボランティア”の存在だ。自ら旅費を捻出してツアーに参加し、被災地の瓦礫撤去や清掃に汗を流した。茨城県水戸市の石塚サン・トラベルは震災直後から現在まで災害ボランティアバスを運行し、延べ1万7千人のボランティアを現地に送り込んだ。同社社長の綿引薫氏に、災害ボランティアの活動について聞いた。
【増田 剛】

 石塚サン・トラベルは東日本大震災の直後から、宮城県石巻市や東松島市を中心に災害ボランティアバスをスタートさせた。

 きっかけは、同社社長の綿引氏が、ひたちなか青年会議所で活動を行っていた時代から、石巻青年会議所と姉妹青年会議所の関係にあったことがベースにある。

 震災で茨城県も大きな被害を受けた。水戸市内も停電していたため、石巻の甚大な津波被害の情報も入らなかったが、数日後、大変な状況だということが分かった。石巻青年会議所のメンバーとは連絡がまったく取れず、10日ほど経って何人かのメンバーと連絡が取れるようになり、ようやく現地に行った。

 何度も訪れていた石巻だったが、以前の面影はなかった。当時の仲間たちが家も会社も流された状況にありながら、「でも、自分たちが生まれ育ったまちだから……」と色々な活動を始めていたことに胸を打たれた。そして、何よりもショックだったのが、青年会議所時代から一番お世話になっていた先輩が、奥さんと一緒に亡くなってしまっていたことだった。

 被災地の凄惨な状況を目の当たりにした綿引氏は「とにかく、人が必要なのだと感覚で分かった」と話す。「できるだけ多くの人を現地に運ぶことが今一番必要だろうなと思いました」。

 「1人を受け入れるのも、100人を受け入れるのも手間は同じ」との仲間の言葉がきっかけとなり、自社グループのバスで1人でも多くの人を送ることを決めた。茨城県も震災から2週間ほど経って地震の被害も片付き始めていた。茨城県の社会福祉協議会と、ボランティア保険などの相談をしているうちに「一緒にバスを動かそう」と協力体制ができた。

 綿引氏が経営する石塚サン・トラベルも仕事がまったくなくなっていたので、「とにかくバスの経費(人件費と燃料費)が賄えればいい」と思い、参加費1人4千円でやろうと決めた。すると、社会福祉協議会から茨城県が1人当たり1千円を負担すると申し入れてくれたため、お弁当代や高速代などを差し引き赤字にならないギリギリの1人3千円で、11年4月29日からバスの運行を始めた。

災害ボランティアバス

 このボランティアツアーをNHKのニュース番組が真っ先に取り上げた。すると、全国から申込みが殺到。ゴールデンウイーク中に1千人以上が現地に行った。県外からの申込みが7割を超えていた。「最初、九州や沖縄など全国から申込みが殺到したとき、インターネットの申込みだったので、本当にこんなに多くの人が来るのだろうかと半信半疑だった」という。

 以来、2年半が経過した現在も毎週末、ボランティアバスは継続して運行している。13年9月現在、参加者は延べ1万7千人ほどになった。基本的に日帰りで、参加者は水戸からバスに乗って現地に行く。

 遠方からの参加者はネットカフェなどで仮眠して、水戸駅を午前4時に出発し、現地に着くのは午前9時前後。午後3時ごろまで活動し、水戸駅に夜9時ごろ到着する。東京に帰る人は最終の特急電車に飛び乗る状況だ。水戸から現地までは参加費3千円で行けるが、沖縄や関西など遠方からの参加者は水戸までの交通費だけでもかなりの額になる。

 現地に到着すると、当初は宮城県の災害ボランティアセンターが人の配置などを行っていたが、現在は東松島市の登録となっており、宮城県の土木事務所のサポートチームにもなっている。

造園に取り組む高校生

 参加者は6歳の子供から80代までありとあらゆる年代が参加している。高校生や大学生などを中心に、部活や学校単位で参加する若い世代が全体の約4割を占める。さまざまな国籍の外国人の参加も多かった。イスラム教徒の外国人は、断食期間中にも関わらず、水も飲まずに一生懸命瓦礫の撤去などを手伝っている姿が印象的だったという。リピーターが全体の3分の1を占めるのも特徴だ。

 「私も毎週現地に行っていますが、1週間でがらっと景色が変わっていくので、変わりつつある被災地を見届けようという人も多いのだと思います」と綿引氏は分析する。

被災地に満開に咲いた芝桜

思いやりの心育成プロジェクト

 今夏は草刈りや花植えが中心だった。被害を受けた仙石線は高台に移設して2015年度の復旧を目指している。住宅も学校も高台移転する計画だ。地元の人はまだ仮設住宅で生活する人も多く、草刈りまで手が回らない。放っておくとすぐに雑草で覆われてしまう。「花いっぱい!」プロジェクトは、草を刈り、菜の花や芝桜でまちを埋め尽くそうとスタートした。今年、芝桜がたくさん咲き、地元の人がとても喜んでくれたという。また、土嚢袋に子供たちがメッセージを書く「思いやりの心育成プロジェクト」なども、色々な人の協力を得ながら取り組んでいる。

「ボランティアに意義を見出そうとする人は潜在的に相当にいると思います。正直なところ驚きました」と綿引氏は言う。「阪神淡路大震災のときにも災害ボランティアが活躍されていましたが、東日本大震災を契機に、災害ボランティアは日本に根差していくと思う」と語る。綿引氏が実施する災害ボランティアバスも次世代を担う子供たちや、若い世代に伝えていこうと、教育ツアーのような意味合いになっている。そのせいもあって子供たちの参加が多い。

 「子供たちが被災地をテレビで見るのと、実際に現地で自分の足で立って呼吸をしたり、風を感じたりするのとは全然違う。子供たちは色々なことを考えると思う。1人でも多くの人に経験してもらい、次に何かあったときに裾野が広がっていけばいいのかなと思っています」と語る。

 綿引氏自身も1995年の阪神淡路大震災と、1997年のナホトカ号の重油流出事故のときに青年会議所活動で色々なことを学んだ。そして、今回の震災では「青年会議所の現役や、OBのネットワークが一番機能したかもしれません」と語る。行政の補完ができたという感想を持っている。

 実際に現地を毎週訪れる綿引氏。現地の人たちのボランティアに対する反応はどのようなものなのだろうか。

 「東北の冬は厳しい。被災者は仮設住宅などからあまり外に出なくなるのですが、『1週間我慢すれば、またバスに乗ってあの人たち(ボランティア)が来てくれる。それを楽しみに生きているんだ』と言ってくれる人もたくさんいました。被災地の方々は『忘れ去られることが一番つらい』とよく言われる。とにかく毎週行って、姿を見せて『あぁ、まだ来てくれているんだ』と感じてもらえればいいのかなと思います」と話す。「ただ、大事なことは、所詮、私たちは他所者なので、ちょっとした手伝いしかできません。しかし、逆に特定の地域や、住民たちとズブズブの関係に入り込んでしまうと、コミュニティーを壊してしまう恐れがある」と綿引氏は強調する。「主体はあくまで被災地の方々で、地元の人たちが自分たちで考えて動き出して、はじめて復興が成し遂げられると思うのです。私たちは、まだ地元の方々が手の回らない草取りなど、ちょっとしたお手伝いをさせていただいていればいいのかなと思います。『さわやかな風』のような存在であろうと考えています」と基本姿勢を貫く。

海岸の清掃

 美しかった野蒜海岸も津波のあとは、一面瓦礫で覆われていたが、1年以上かけて片付けていくと、震災から一度も咲かなかった浜昼顔が、今年初めて綺麗に咲いたという。

 「もう駄目だと思ったものが、ボランティアのお陰で再生したり、もう咲かないと思われた花も咲いた。自分たちも頑張っていこうと思える」と被災者に何度も言われた。「こんなものは片付かないだろうと思った瓦礫の山も綺麗になり、やはり人の力ってすごいなと思いました。花の力もすごいですね。地元の人は『元気になる』と皆喜んでいました。ボランティアの人に手を合わせられる被災者の方も数多く目にしました。私たちは大きなことはできませんが、被災者の方々に寄り添っていればいいのかなと思います」。

 ボランティアに参加できない人たちも被災地を見ることは大事だと綿引氏は考える。昨年の秋から被災地復興支援ツアーも別枠で実施している。現地では再開した店も増え、経済を動かすために、これからは災害ボランティアバスの延長線上として1人でも多くの観光客を送りたいと思っている。
地域の再生も少しずつ進んでいる。現在は仮設住宅からの引っ越しの手伝いも取り組み始めた。
「子供たちが自分が植えた芝桜やアーモンドの木が育っていくのを見届け、将来、自分の子供を連れて見に行ったとき、当時子供だった地元の人たちも育ってお互いにそこで語り合うのもいいのではないでしょうか」と遠い未来を思い描く。
綿引氏は最初は作業しながら涙が止まらなかったが、1年が経ち、2年目からもう泣くのはやめようと思い、3年目に入ったときは、もう同情することをやめたと言う。「自ら頑張って立ち上がろうとする人がたくさんいるので、いつまでも同情モードでいたらダメな気がしたのです。頑張って立ち上がろうとする人たちの応援をしていきたいと思っています。おじいちゃん、おばあちゃんも元気で、70歳を超えるおじいさんが孫を迎えるために『もう一回家を建てるんだ』と言っている人もいます。私も、地元の人から『もう大丈夫』と言われるまで行くつもりですが、そう言われたときに、先輩の墓の前で酒を飲むのが夢なのです」と笑顔になる。

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